今回は原点回帰しつつ、刺さる人には深く突き刺さる、そんな作品を目指しました。
お楽しみください。
時刻はまだ朝の七時ごろ。この時期はこの時間でも少し空に暗さが残っている気がする。ほとんど人がいない校舎は、いつも以上に寒く感じる。
僕はそんな冷え切った静寂の中で、生徒会室の戸を開いた。
「おはよう、
「来てくれてありがとうございます、
「どうしたの?2人きりで話がしたいなんて、みんなには言いづらいこと?」
両見
昨日の夜、どうしても2人きりで話がしたいとメッセージで呼び出されたのである。生徒会長として、それを聞かないわけにはいかない。わざわざ誰もいない時間に呼び出すなど、よほど重大なことなのだろう。
「先輩、ごめんなさいっ!」
「んむっ!?」
身構えている僕に、彼女は一直線に飛び込んできて、そのまま唇と唇が衝突した。
その瞬間だった。何かふわりと浮いてしまうような感覚と共に、僕の中で「何か」が外れた。驚いてかっ開いてしまった目は自然と閉じて、くらりと体の力が抜けて、体が熱くなって、そのまま何も考えられなくなって。
「……あは……♡……ほんとに、入れ替われちゃった……」
ぼーっとした視界が、少しずつはっきりしていく。目の前には分厚いレンズがあって、その先に人がいる。それは、唇を奪った犯人ではなく、少しくねくねした仕草で恍惚とした表情を浮かべた自分自身だった。
「わたしと先輩の体を入れ替えさせてもらいました。今はわたしこそが
「入れ替え……何を、言って……」
目の前にいる人物の言うことを、僕は理解できなかった。体が入れ替わるなんて、そんなことありえるはずがない。でも、目の前にいる男は間違いなく僕だし、今自分の口から出ている声は普段よりも高い気がする。顔に手を当てようとすると、普段僕はかけていない眼鏡にぶつかる。
「先輩の体はわたしが預かりました。今日一日、入れ替わっていることが誰にもバレなかったら、元に戻してあげますよ」
「な、なんだよそれ!?そんなこといきなり言われても」
「ちなみにバレたら……一生戻れませんから。じゃあ頑張ってくださいね、歩武先輩♡」
一方的にそれだけ告げて、目の前の僕は颯爽と生徒会室を飛び出していってしまう。
「待って!」
慌てて追いかけようとするも、まったく追いつけない。体が、いつもより重い気がする。走ろうにも、なんだか重心が前の方に引きずられてバランスが取れない。
僕の体が、僕からどんどん離れていって、見えなくなって、息切れして動けない僕だけが残されてしまった。
膝に手をついて、ゆっくりと息を整えようとする。すると容赦なく目に入ってくるのは、足がよく見えなくなるほどに主張した、男の胸部には存在しなかった2つの突起物。その下でわずかに見える、ひらひらとしたスカート。
「……本当に、なってるのか……女の体に」
男というものは、女性の魅力ある部分が目の前で揺れていると、つい触りたくなってしまうものである。堅物生徒会長と呼ばれている僕も、例外ではない。生徒会長である以前に思春期の男子なのだから。それにきっと、こんなの現実じゃない夢に決まっている。体が入れ替わるなんてありえないんだから。だから少しだけ、触ったりしても、いい、かな?
「あやっち?」
「ひぃぃぃ!」
後ろから急に声をかけられて咄嗟に振り向く。そこには僕を心配そうに見つめる女子生徒がいた。彼女は
「なんだ、西建か」
「あやっち、今日は美色って呼んでくれないんだ?」
まずい。怪しまれてしまったか。とりあえずさっきの両見の発言からして、僕の正体がバレたら何をされるかわからない。ここはなんとか両見のフリをしてごまかそう。といっても、両見は普段友達とどんなふうに接してるんだ?おそらく、生徒会にいる時とそう変わらないであろうかとは思うが。
「ご、ごめん。美色。ちょっと、寝ぼけてた、かなー?」
「……ふーん。それより何やってたの?そんな息切らして。えっちなことでもしてた?」
「なななな何言ってるの!?」
西建は僕のことをじーっと見てくる。その視線はまるで、両見文実の体の中にいる僕のことを直接見ているような、そんなふうに思えてしまう。そのまま10秒くらい見つめられたのち、彼女はパッと元の陽気な表情に戻った。
「冗談冗談。それより早く教室いこ。あと昨日の課題写させて」
「いや、課題は自分でやろうよ」
「えー、いつも写させてくれるのにー!あやっちのけち!」
「あ……じゃ、じゃあ、いいよ。写しても」
そんな会話をしながら、僕たちは1年2組の教室に入った。両見の席がどこかわからなかったが、それとなく西建についていったら無事辿り着けた。僕は両見の席に、西建はその前の椅子をこちらに向けて座り、目の前で課題を取り出して堂々と写し始める。僕はただ黙って見守ることしかできない。
「いやぁ、今日はあやっち優しくて助かるよぉ。いいことあった?」
「……そ、そう?あんまり、変わらなくない?」
そんな話をしていると、本来前の席に座るべきであろう人が登校してきて、西建は軽く謝ってから席を立った。そのまま机の横で残りの数問を写していると、担任が教室に入ってきて、彼女は慌てて課題プリントを隠した。
「ほんとありがと、またあとでね」
そう言い残して彼女が自席に戻った瞬間、始業のチャイムが鳴って、朝のホームルームが始まった。
そこから3限目の授業までは、さほど苦労はしなかった。両見は普段、教室では西建以外とあまり喋らないようなので、会話でボロが出ることは特になかったと思う。授業の内容は去年習ったところなので特に詰まることがなかったどころか、去年よりもよく理解できたともいえる。何より両見のノートはとてもわかりやすくまとめやすくまとめられており、生徒会書記としての能力も頷ける。
問題は、その次だった。
「次体育だよ、更衣室いこ」
「え」
「いくら持久走やだからってそんなこの世の終わりみたいな顔しなくてもいいじゃん」
体育ということは、当然体操着に着替える必要がある。あるのだが、僕は今女子の肉体である以上、女子更衣室にいかなければならない。女子更衣室を覗きたいと思ったことがないか?と聞かれたら、その答えはノーであるが、それはそれだ。
僕は西建に連れられるまま、あれよあれよという間に女の園へ入れられてしまう。既に何人もの女子が着替えているのが見えて、つい反射的に目を逸らせてしまう。実際に男子が1人女子更衣室に放り込まれるなど、目のやり場のなさと罪悪感ばかり感じるものなんだ。
「……どーしたの?早く着替えよ?」
「……なんでもない」
僕も他の女子たちと同じようにブレザーを脱ぐ。セーターも脱ぐ。ブラウスも脱ぐ。すると黒いインナーと、その下にちらりと見えるブラジャーと、さらにその奥に隠されたものも見えてしまいそうになり、つい目を閉じてしまう。
「えいっ!」
「うひゃっ!?」
急に胸を鷲掴みされて変な声が出てしまう。目の前で西建がニヤニヤしている。周りからも見られている。
「……ごめん、変な声出して」
「かわいかったよー。それより、あやっちまた大きくなったんじゃない?」
「えっ……大きくって?」
西建は手をわきわきと動かしながら言ってくる。女子のスキンシップは男子より激しいと噂を聞いたことがあるが、本当だったのか。
「そりゃご立派なお胸だよ。これで先輩をゆーわくするんでしょ?」
「そ、そんなこと!」
「冗談冗談。それより早く着替えなきゃ、遅れちゃうよ。あのセンセー遅れるとダルいんだから」
「う、うん!」
僕は急いでブラウスを脱いでジャージに袖を通す。ズボンは西建に倣い、先に穿いてからスカートのみを外す。その後小走りでグラウンドに出ると、ほとんどの生徒が集合していたので、慌てて列に加わる。
準備運動を行なって、持久走の授業が始まる。
朝も感じたことだが、普段と重心が違う感じがして走りづらい。その原因が胸部で揺れる2つの塊にあることは明白だった。重い。とにかく重い。大きな袋をふたつ抱えたまま走らされている気分だ。
「はぁ……はぁ……」
それに体力が持たない。息が続かない。彼女は運動音痴だと聞いていたけれど、聞くのと自分がなるのでは話が違う。胸が揺れていたい。脇腹も痛い。足も痛い。自分では一生感じることがなかった辛さだった。その上頼みの綱の西建は健康優良児であり、早々に僕を置いて走り去って、気づけば後ろから追いついてきたくらいである。
「はぁっ……もう、ちょっと……」
元の自分の体で走った時の3倍はあるんじゃないかと錯覚するほどに長い道のりを、三十分以上かけてなんとか走り切る。全身の筋肉が悲鳴を上げているのを感じる。心臓の鼓動が速くなったまま全然治らないし、胸が圧迫されて呼吸も苦しい。
「頑張ったねーあやっちー。はい、お水」
「……ありがと……」
「いっぱい走ったらお腹すいちゃったねー。次昼休みでよかったー」
「……うん……」
絶え絶えの呼吸でなんとか言葉を返す。授業が終わったら、西建の肩を借りてなんとか再び更衣室に辿り着く。幸か不幸か、疲れのおかげで余裕がなく、制服に着替え直すのはあまり苦戦しなかった。
教室に戻ると、既に着替えを終えた男子たちが昼食をとり始めている。
両見のカバンの中を漁って弁当と思しき包みを取り出し、西建とともに食事を取ろうとした、その時だった。
「両見!」
教室の入り口に、「僕」がいた。
「ぼ……先輩!?なんで!?」
「ちょっと生徒会のことで話があって、ね。一緒に来てくれる?」
「……わかったよ」
僕……の体を操る両見の元へ歩き寄った。朝の少し気持ち悪い挙動はなく、目の前にいる両見があまりにも僕っぽすぎてたじろいでしまう。まるで入れ替わりなんて本当はなくて、僕は自分のことを道枝歩武だと思い込んでいる両見文実なんじゃないかと錯覚するほどだった。
「ありがとう。じゃあ行こっか。お弁当も持ってきて」
「……ごめん美色、先輩に呼び出されたから、行ってくるね」
「おっけー。お幸せに〜」
教室で残った西建に手を振られながら、僕は彼女に連れられて、再び生徒会室にきた。ガチャリと後ろでに鍵を閉められ、そのまま席に連行される。
「午前中はどうでしたか?先輩」
彼女は僕のフリをやめて、両見文実として話しかけてきた。その態度に少し苛立ちを覚えてしまう。
「どうでしたもこうでしたもない!なんでこんなことをした!?」
「まあまあ、とりあえずこれでも食べて落ち着いてください」
「むごっ……」
そんな僕の口に、「僕」の箸で、両見の弁当に入っていた卵焼きが投入された。このまま喋るわけにもいかないので、咀嚼する。すると出汁の塩味と甘味が口の中で溢れてくる。
「……美味い」
つい感想が出てしまうほどに、その卵焼きは美味かった。料亭で出てきても何も疑わない程に。
「えへへ。わたしの手作りです。お口にあったでしょうか……いや、わたしの口に、わたしの料理が合わないわけないですが」
「……って、違う。なんで僕にこんなことを」
弁当のうまさに誤魔化されかけたが、話を戻そうとする。しかし彼女は一筋縄ではいかない。
「先輩がわたしの質問に答えたら、答えてあげますよ。だから聞かせてください。わたしとして過ごして、どう思いました?何を感じました?事細かに、お願いします」
答えなければ一歩も引かない、といった態度だ。まあ、感想を言うだけなら、安いものか。
「……とりあえず良かったところは、授業ノートがすごいよくまとまっていて、わかりやすかった」
「ありがとうございます。そこは意識している点なので、素直に嬉しいです」
「あと、困ったことは西建と一緒にいればなんとかなったのはありがたかったかな」
「ふふ、美色ちゃん優しいですからね。悪いところは?」
他人の体で悪いポイントを言うのは貶しているようで少々言いづらい。
「……体育がきつかった」
「具体的には?」
だが本人が赤裸々な感想を求めているので、忌憚ない意見を述べるしかないらしい。
「……体力ないし、すぐ息きれるし、それにその」
「その?」
「む、むねが、おもく、て……」
あまり答えたくない部分ばかり深掘りされて、まるで面接でもさせられているかのような気分だ。
「……まあ、及第点、ですかね。じゃあ、ご飯でも食べながらもっと詳しく話しましょうか。このお弁当は先輩のお母さんが作ってくれたんですかね?」
「そうだけど……そうじゃなくて、なんでこんなことしたんだ。僕の体を返せ」
両見は、僕のご飯を飲み込んで、仰々しく一呼吸してから話しだす。
「……そうですね……一言では語り尽くせませんが……一番の理由は……先輩に、わたしのことをもっと見てもらいたかったから、ですかね?」
背筋がゾワっとした。目の前にいるのは自分の体で、声も自分の声のはずなのに、まるで自分じゃないみたいで、それに、ねっとりとしていて、重苦しかった。
「……先輩、怖いとそんな顔するんですね。今はわたしの顔だけど……知らない表情、見つけちゃいました♡」
「き、気持ち悪いこと言うな、僕の体で……」
これ以上聞くのが怖くて、そのまま無言で弁当を食べた。味はほとんどわからなかった。それに完食しても、まだ昼休みは終わらない。目の前にいる僕は、普通にしていれば元の僕のように見えるが、さっき向けられた視線は、声は、感情は、僕じゃないものだと容易に理解させてくる。
そんな僕にさらなるピンチが訪れる。何かといえば、尿意だ。
「……両見、トイレ行きたいんだけど」
「どうぞ?」
「いや、どうぞじゃなくて。女子って、どうやってするの?」
「……別に特別なことはしませんよ、普通に便器に座って用を足せばいいじゃないですか」
こいつは平然とそう言い放つ。こいつはおそらくあえて突き放して反応を見ようとしている。それならこちらにも考えがある。
「……いいの?僕を女子トイレに行かせて。それにトイレに行くってことは、脱ぐってことで、体見られたりするんだよ?」
「いいですよ、別に。先輩に見られることは承知の上で入れ替わりましたし、わたしだって、もう先輩の、見ましたし」
「んなっ!?」
「それに、さっき女子更衣室入ってたじゃないですか。女子トイレくらい大したことないですよ。いってらっしゃい、先輩♡」
僕は彼女の言に押し負けて、僕はそのまま席を立ち上がって、近くの女子トイレに入った。幸い生徒会室の周りは利用者が少ない。個室のひとつに入って鍵をかける。見ないように下着を下ろして、スカートを持ち上げて便器に座る。
「……ん……」
初めての感覚に少し声が漏れる。男だった時は一方向に出ていくような感じがあったが、女はそうではなかった。
トイレットペーパーを巻取り、股間部を拭く。下着を穿き直して、水を流す。
終わってみれば案外簡単だった。もっと手間取るものかと思ったが、少し拍子抜けしてしまう。
そのまま手を洗って、生徒会室に戻る。
「……いない」
そこにはもう僕の体はなく、机には書き置きが一枚残されていた。その筆跡は、おそらく両見のものだ。
「……"放課後もここに集合です"……」
ぞわぞわとした感覚を無視して、メモをゴミ箱に捨てる。弁当を片付け、生徒会室を後にする。教室に戻る時、無意識に、本来僕がいるべき2年3組の前を通ってしまう。
少し覗いてみると、そこには僕と、僕の友人たちが楽しそうに喋っている姿が見えた。友人たちは、僕の中身が他人と入れ替わっていることに気づいていないようだ。それがなんだか寂しかった。
「あやっちおかえりー。会長と何話してたの?まさかついに告白されちゃった!?」
「違うよ!」
「そっかー。今日のあやっちそわそわしてるから気になっちゃうなー?」
「なんでもない、なんでもない、から」
そのあとの授業は、おおむね普通にこなすことができた。しかし、午前中よりも集中はできていなかったと思う。放課後のことを思うと、余計に。
「はぁぁ……疲れた……」
「おつかれー、あやっち」
いつもより数倍は疲れたが、無事放課後。ついため息を漏らしていると、毎度の如く西建がカバンを抱えてしゃべりに来た。
「あやっちは、また会長のところいくんでしょ?」
「えっ……なんでわかったの?」
「友達だもん。なんでもお見通しだぞ」
勘が鋭い。いや、昼休みのことから推測されたのかもしれない。こういうことによく気がつくからこそ、生徒会のムードメーカーになれるのかもしれないな。
「じゃああたしは部活行くね。また会おうね、ちょっと変なあやっち!」
「え……待ってどういう意味!?……行っちゃった」
少々意味深な別れの挨拶をした西建は、別の友達と楽しそうに歩いていってしまった。僕は荷物をまとめ、重い腰を上げる。
生徒会室にいくと、もうそこには両見がにんまりとした笑顔で待ち構えていた。
「お疲れ様です、先輩。それじゃ、一緒に帰りましょっか」
「待って、僕の体はいつになったら返してくれるの?」
「そうですね……ちょっとここでは話しづらいので、詳しくは、先輩のお家で」
なんだか上手くかわされてしまっているような気がするが、体を元に戻してもらわないと困るので、大人しく両見に従って、共に自分の家に向かって歩き出した。
「楽しみですねえ、先輩のお家。いや、いまは僕のお家、かな♡」
「気味悪いこと言わないでよ……」
そんな会話のほか、またしつこく今日の感想を聞かれたりしながら、自分の家に帰る。両見は相変わらず僕そのもののような動作で、鍵を開けて家に入った。
「あらおかえり。その子は?」
「ただいま。この子は彼女」
「か、彼女じゃない!ただの後輩!」
母に会うなり流れるように自分を彼女だと刷り込もうとするのを慌てて訂正した。
「あらあら、なかなか可愛い子じゃないの。お茶持ってくるわね」
「そういうのはいいって。ちょっとテスト勉強一緒にするから、部屋こないでよ」
「はいはい、わかったわ」
両見は僕の母を軽くあしらって、階段を上がり、そのまま僕の部屋に入ろうとする。なんでこいつ、僕の部屋の位置を把握してるんだ?それに、母親ですら僕の中身が別人であることに気づかないなんて。なんだかモヤモヤしながら部屋に入ると、僕を部屋の奥に通して両見は部屋に鍵をかけた。
「邪魔されたら困りますから、ね」
「な、何する気だよ」
「そろそろ教えてあげますよ、わたしと先輩の体を入れ替えた、本当の理由」
そう言いながら僕の体は、僕にじりじりと迫ってきた。
「な、なんだよ……うわっ!?」
自分のベッドに押し倒される。元の自分のほうが力が強いので抵抗できない。
「先輩、大好きです」
「え……」
告白された。それも自分の顔で。状況が、うまく飲み込めない。彼女が僕のことを好いているということはわかったが、どうして僕のことを好きになるのか、好きになったからといってこんな奇行に及ぶのか、わからない。
「……やっぱりそういう反応なんですね。先輩は、ちっともわたしのことを、女として見てくれてなかったんだ」
正直なところ、彼女のいう通り、両見文実を恋愛対象として意識したことはなかった。後輩の1人、生徒会のメンバー、一種の仕事仲間以上の感情を抱いたことはない。
でもなぜか、無性に胸が高鳴ってくる。それに自分の呼吸が荒くなっているのがわかる。
「だから教えてあげますよ、『両見文実』が『女』だって♡」
「むぐっ!?」
"僕"の腕が、"両見文実"の目と口を塞いだ。
「んんんっ!?」
抵抗しようにも、この肉体の力では、僕の力には敵わない。もがいてもただ息が苦しくなるだけ。呼吸をするため鼻から息を吸おうとすると、目の前にいる自分自身とこの部屋の中に漂っている自分の匂いが入ってくる。
「そう、そのまま、もっとここの空気を取り込んで。そうすると、どんどん体が熱くなって、頭の中がふわふわしてきますよね……」
そのまま十秒ほど、自分の匂いを嫌というほど嗅がされて、お腹の底の方からきゅーっと熱が沸いてきて、頭がくらくらしてきて。ようやく、僕を押さえつけていた手が解かれた。
「ぶはっ……はぁ……♡なんだ……これっ……!」
「『文実』はいけない子だな。『僕』のことが大好きだから、『僕』の匂いを嗅ぐだけでそんな風になっちゃうなんて♡」
そう言って目の前にいる男は、どこからともなく手鏡を取り出して、それを僕に見せてくる。そこに映っているのは、上気して切なそうな表情を浮かべている女の顔だった。
「それが今のあなたですよ。あなたは、好きな人の匂いを嗅いで、好きな人が欲しくて欲しくてたまらなくなっちゃった、恋する女の子なんです♡その体の中にいる限り、あなたはもう、"道枝歩武"の魅力から逃れられない」
「ち、ちがう、僕は」
「ほら、もっと嗅いでいいですよ♡」
そう言って、腕が差し出される。嗅ぎたい。もっと吸い込みたい。もっと"先輩"が欲しい。そんな思考で頭の中が埋め尽くされていく。
「すぅぅ……♡あっ……嫌……ちがう、こんなこと、したくな……ひゃあ!?」
「こうして"好きな人"に触ってもらうと、嬉しくて、気持ちよくなっちゃいますよね?」
不意に、もう片方の手で胸を揉まれた。そのまま捏ねるように、僕にくっついている大きな乳房を、両手で弄ばれる。嫌なのに、体に力が入らない。
「ひゃめろ……」
「本当に、やめてもいいんですか?気持ちいいくせに」
「気持ち、よくなんか……♡」
「……嘘をつくような悪い先輩には、お仕置きしないとですね……」
「ぅぁっ……ひぅ……♡」
胸を揉んでいた手は、胸から腹へ、腹から腰へ、体を撫でるようにつーっと下りていき、そのままスカートの中に潜り込み、その下の、下へ。
「な、なにをぅっ!?ど、どこさわって」
「どこって……トロトロになった先輩おまんこですけど?」
「おまっ!?」
「先輩、照れてる……いや、きっとこっちのほうが効きますね……君はエッチな子だね、文実」
「んんんんっ♡♡!?!?」
耳元で囁かれた。背筋がぞくっとして、そのぞくぞくがそのまま頭の中まで突き刺さってしまったかのような、衝撃。
「……いまのでイッちゃったんだ。変態」
「んんっ!?……やめろ、それ……おかしくなるぅ……♡♡」
「言葉だけでそれなら、挿れたらわたしの体、どうなっちゃうんでしょうね……♡?」
「んああっ!?」
つぷり、と指が体内に侵入してきた。
「あぁぁぁ♡……やめっ……っ!」
自分のものであったはずの指が、今の自分の体を蹂躙する。自分の意思ではないのに体がびくびくと痙攣して、喉から勝手に声が漏れ出す。
「ふふ、かわいいね、文実♡」
「や、めろ……母さんに聞かれたら、どうするんだよ」
「いいじゃないですか、聞かせてあげましょうよ。可愛い息子の、可愛い喘ぎ声♡」
そんなことを笑顔で言われたら、もう僕は声を出すことすらもできなくなってしまうではないか。もう、何を言っても無駄なのだと、理解してしまう。
「さて、ほぐれてきたところで、そろそろこっちも使いましょうか♡」
彼女は、ベルトを外し、スラックスもパンツも脱いで、下半身を露出した。僕に、見せつけるように。
「えっ……」
見慣れたはずの、自分の体の一部なのに、なんでこんなに、大きく、魅力的に見えるんだろう。なんで、こんなに欲しくてたまらないのだろう。この体のせいだ。僕がおかしくなったわけじゃない。
「えへ、いますぐ欲しいって顔してますよ、先輩♡」
「して、ない……」
「ではお望み通り、このまま挿れてあげますね」
彼女はこの体の足をこじ開けて、僕の肉棒を構えて、容赦無く挿入しようとする。それも、避妊もない生の状態である。さすがにそんな行為を許すわけにはいかない。
「待て!これはお前の体だぞ!?もし妊娠でもしたらどうするんだ!」
「いいですよ、先輩との子なら大歓迎ですから……ねっ♡!」
「んああああああっ♡♡♡!?!?!?」
せめて声を抑えようと口を閉じたが無駄だった。自分の体だったものが、容赦無く抉るように腹の奥に突き刺さって、その衝撃が体から頭の先を貫くように突き抜ける。
「だめだっ、ぬいてっっ!?あっ♡!?」
股の間に、僕の腰が、押しつけられる。腕を掴まれて抑えられて、何も抵抗できない僕を、ただひらすらに、犯す、冒す、侵す。
「気持ちいいですかぁ?」
「んっ!?あっ!あっっ♡!!あっっっ♡♡♡!!」
「気持ちいいんですねぇ♡」
否定したいが、言葉が出てこない。口から出るのは獣のような喘ぎ声だけ。どうにか抜いてもらおうと考えても、思考がどんどん、「好き」で塗りつぶされていく。嫌なのに、目の前の人への愛以外が何も見えなくなっていく。
「んあっ!すきっ♡!……じゃ、ないっ、のにっ!すきっ……っ♡!!??」
「かわいい、好きだよ文実♡もっときかせて♡」
「ちがっ!!あっあっあっっ♡♡!?」
先輩のことが好き。大好きな人と繋がれてしあわせ。もっとめちゃくちゃにして欲しい。
違う、これは僕の思考じゃない。この体の感情が、記憶が、どんどん僕を侵蝕していく。怖い。このままだと完全に両見文実に塗り替えられてしまう。元に、戻れなくなってしまう。自分が、消えてしまう。
「やだ!これいじょうしたら!ぼくが!きえる!?」
「消えませんよ、安心してください!ただあなたはあなたのままっ!好きな人にちんぽ突っ込まれるのが大好きな!メスになるだけですよおお♡っ!」
「んぁっ!?ぁっあっ!?」
もう何も考えたくない。それでも肉体が、僕の精神が折れることを許さない。僕は、ただ自分に犯され続けた。自分から出る他人の喘ぎ声と、他人から出る自分の言葉攻めを無心で聞き続けた。
「そろそろ出そうです、わたしのおまんこでしっかり受け止めてくださいね♡!」
そう宣告された時、急速に思考が回復された。すでにまずいことをしているが、これ以上は本当にまずい。止めないと。
「待て!それはダメだ!抜いて!」
「嫌です」
「そんなっ……ぁ……ああああああああっっっ♡♡♡♡!!!!????」
お腹の中に、熱いものが注がれた。その瞬間、今までの何倍、何十倍、何百倍もの衝撃と快楽が、全身から脳天を一気に駆け巡って、頭の中が真っ白になった。
「はあ……はぁ……♡」
心臓が、ものすごい速さで動いている。息が苦しい。幸せな甘い余韻と、身悶えるほどの恐怖心が同時に湧き上がってくる。頭が、体が、自分の言うことを聞いてくれない。
「どうでしたか?気持ちよかったですよね?」
「うぅ……死ぬかと……思った……」
「……え?」
気づいたら、目から涙が溢れていた。多分、行為の途中から僕はずっと泣いていた。自分の体は他人に操られて、その自分に犯されて、未知の快感と、未知の感情に押し流されて、自分がどこかに消えてしまいそうになって。怖くて、怖くてたまらなかったんだ。
「なんで、こんな酷いことしたんだよ……!」
「っ……ち、ちがう……そんな、はずじゃ……」
「返してよっ……僕の体!」
「……ごめんなさい、先輩……体、返しますから、ちょっとだけ、失礼します」
キスされた。意識がパチっと閉じて、すぐに戻ってくる。さっきまで抱いていた感覚はどこかへ消え去って、体には爽快感と倦怠感が残っていた。下には、見慣れた自分の肉体が。目の前には、目を真っ赤にした後輩の姿が。
「……戻った……」
「……先輩、ごめんなさい……怖かったんです、ね……」
両見は、先ほどまで僕の体でめちゃくちゃなことをしていたというのに、今は自分の体でかくかくと震えている。おそらく、さっきまで僕が味わされていた感覚が、彼女にフィードバックされたのだろう。
「わたし、ただ、先輩に、好きになってもらいたかった、だけだったんです……」
そうして彼女は、ようやく隠されていた心情を話した。
それを見て、僕はなんだか無性に、イラッときてしまった。
「……ふざけるなよ……急に体奪って、無理やり犯してくるようなやつ、好きになるわけないっ……!」
「……嫌いに、なりました?」
やめろ。その目をやめろ。なんだか、僕が悪いことをしたみたいじゃないか。確かに僕の体は悪いことをしていたけれど、それは君が操っていたせいなんだから。
「……うん。今、僕は君が嫌いだよ。もう、帰ってほしい」
「です、よね……さようなら、先輩」
僕は見送りもせず、そのまま去っていく両見を見ていた。あとで母に、女の子を泣かせた上に送らないなんて何事かと叱られたが、何も言い返す気にならなかった。
それから、僕はほとんだ元通りの生活に戻った。翌日、学校で友人と会った時、彼らとは久々に再会したような気分だった。1日別人になっていただけで、自分の日常というものはこうも大切なものなのだと気付かされた。
ただ、唯一、元通りにならなかったことがある。
「会長、あやっち学校来ないんすけど、なんか知りませんか。全然連絡つかなくて」
「両見が……」
僕は西建に言われてから、両見の欠席を知った。まあ、昨日あんなことがあったら学校に来れなくなるのも無理はないかもしれない。彼女が全面的に悪いとはいえ、失恋のショックもあっただろう。
「……僕には、わからないよ」
「……そうっすか……」
この時は、これは一時的なもので、何日かしたら復帰するだろうと思っていた。だが、彼女はずっと学校に来ない。正直少し安心した。彼女が学校に来たら、振られた腹いせにまた何かやらかさないとも限らないから。生徒会での仕事は増えたし、寂しさもありはするけれど、日常は取り戻せた。
でも、なぜか僕はこれに、一切満足できないでいるのだ。何かが、物足りないとそう思ってしまって、なんだか集中が途切れたり、イライラしたりすることが多くなってきた。
「……会長、大丈夫っすか?」
「……ああ、西建。すまん、大したことじゃないから、気にしないで」
目の前に西建の顔が割り込んでくる。表面上はいつも通りを取り繕っていたつもりだったが、彼女にはお見通しらしい。
「今日は美色って呼んでくれないんすね」
「……一回も呼んだことないでしょ」
「そうでしたっけ。それより、なんかあったんすか?会長、最近ずっとその調子っすよ?」
西建は細かいところによく気がつく。両見と入れ替わったあと、以前よりよく話すようになったため、それをつくづく感じていた。そんな彼女になら、自分の悩みを話してもよいと思った。
「……なんか、最近満ち足りないというか、ずっと、何か大切なものをなくしてしまった気がしているというか……ずっとそれで、何にも身が入らないんだ」
「……あたし、心当たりあります。といっても勝手な推測なんで、違ってたら、ごめんですけど」
「……聞かせてくれる?」
西建は、何かに気づいているようだった。きっと、僕自身がわからないことだ。少し、聞くのが怖かった。でも、このままではいけないと思った。
「……会長、あやっちに会いたいんじゃないっすか?2人の間に何があったかは、わかりませんけど……でも、あたしも、ずっと友達が来ないのは、寂しいですし」
「……そう、かもしれない」
目から鱗が飛び出た気分だ。確かに今僕は、両見文実に会いたいと、そう思っている。理由は、わからない。あんなことされてまだ会いたくなるなんて。ずっと生徒会として共に活動していたから、その時の情のようなものはあるかもしれないが、なんだかそれとは違う気もする。
「じゃあ、あやっちに会いましょう。そしたらきっと何か変わりますって。連絡先とか家の場所とか、教えるんで」
「……そう、言われても」
怖い、とは言えなかった。それを言ったら、余計に彼女を傷つけてしまうから。でも、行くと言うこともできない。情けない。結局僕は、自分が1番大事なんだ。
「……じゃああたしからお願いします、1度あやっちに会ってきてください。……あたしが連絡取ろうとしても、あやっち無視するんで……会長じゃないと、ダメなんすよ……それと」
「それと?」
「あたし、あやっちも会長も、同じくらいの大切なので、2人には、仲良くしてほしいんです!自分勝手なのはわかってるっす……それでも、お願いします!」
西建美色のこんなに真剣な顔は、初めて見た。正直、まだ両見に会うのは怖い。だが、生徒会の仲間からの頼みとなれば、話が変わる。それに、これはいつか、僕が向き合わなければならない問題なんだから。
「……わかった。行ってみるよ」
「ありがとうございます、会長!」
僕は意を決して、両見文実の家を目指した。自宅の最寄駅を通り過ぎて4駅先、閑静な住宅街の中、両見という表札の出された家が目に入る。珍しい苗字だから恐らく間違いはないだろう。
深呼吸する。唾を飲み込む。意を決して、インターフォンを押す。少し経って、玄関の戸が開いた。
「……お待ちしていましたよ、先輩」
両見文実だ。以前にも増して陰気なオーラを放っている。無理もない、彼女は、僕に振られたのだから。
「あの、この前は、ごめんなさい」
彼女は、深々と頭を下げた。正直少し意外だった。彼女のしたことは許されるべきことではないが、反省しているなら必要以上に責め立てることもない。
「僕は許さないし、言い過ぎたとも思ってないよ。でも、君が来てくれないのは、寂しいよ。西建も待ってるしさ、また学校来てくれると嬉しいなって、それを伝えにきた」
「あゆむ……せん……ぱいっ……」
彼女は、その場で泣き崩れた。ずっと、謝りながら。流石に放っておけなくて、しばらく様子を見ていた。
「……すみません。わたし、先輩に迷惑ばっかりで……」
「……そんなことないよ、何度も君には助けてもらった」
「……あの、もしよかったら、少し寄っていきませんか?」
「いや……」
悪寒が走った。きっとこの誘いに乗ったら、後戻りできなくなってしまうと直感した。でも、せっかくの誘いだ、無碍にするのも申し訳ない。
「こっちですよ、先輩」
手招かれるままに、暗い廊下を抜けていく。そのまま奥にある部屋に入ると、そこには異様な光景が。自分の写真が貼られた部屋。明らかに盗撮と思しきものしかない。しかも僕の私物らしきものも祭壇のように飾られていた。
ぞくりとした。
それなのに、なぜか、嫌じゃない気分が混ざっている。気色が悪い、はずなのに。
「素敵な部屋だと思いませんか?」
両見は、不敵な笑みでそう言った。あの日と同じような、少し気色悪い笑み。
嫌な予感がした。彼女は、もしかして何も変わっていないのでは?反省し、改心したりはしていないのでは?
「……両見、お前、何を考えてるんだ?」
「わたしは、あなたのことだけを考えていますよ」
「ふざけるな」
「ふざけてません」
後悔した。僕は彼女のことを見誤っていた。彼女は根本的に、僕とは違う人間なんだ。僕の尺度で測ったら、絶対に失敗する。それでいて、目が離せない。
「わたし、知ってますよ。先輩がわたしに会いに来た、本当の理由」
「本当もなにも、さっき言った通りだ」
「いいえ。さっきのは言い訳ですよ」
また、訳のわからないことを言い始めた。でも、彼女の言っていることは、紛れもない真実だ。なぜか、そう思えてしまう。
「そうですか……自分で認めちゃうのが怖いから、わたしに言わせようとしてるんですね」
「な……」
違う。
「わたしは先輩のことを誰よりもよくわかっている生涯の伴侶なので、特別に代弁してあげますよ」
「ま、まって」
「わたしにもう1度なりたい。そしてあの日のように思い切りめちゃくちゃにされたいと、そう思ってしまったんですね?」
図星だった。腑に落ちてしまった。
「そ、そんなことない!」
そうだ。最近なんで、物足りないなんて思っていたのか。
あの暴力的なまでの愛情が、快楽が、幸福が、魂にこびりついて離れなかったのだ。
「歩武先輩、わたしにキスしてください」
両見文実は、目を閉じて軽く唇を突き出した。
よく見ると、綺麗な顔立ちだ。色白で、メガネがよく似合って知的で、とても、魅力的で、まるで、吸い込まれるようで。
「お゛……っ♡!?」
唇が触れ合った瞬間。僕の全身に甘い快感が溢れ出した。
「なに……これぇ……♡」
「何言ったって無駄ですよ。だって今の先輩、真っ赤な顔で、幸せそうな顔してるんだもん♡」
わかってしまった。いま、体が喜んでいる。"先輩"がまた入ってきてくれただけで、"わたし"の体は軽くイけるくらいに。
「お望み通り、まためちゃくちゃにしてあげますよ♡」
「ち、ちがう!僕はそんなこと望んでない!」
「でも、体は正直みたいですよ?」
「んぅっ♡!?」
それは電撃のような衝撃だった。体に触れられるだけで、あの時のような悦びが全身を満たした。恐怖すら、快感に押し流されて消えていく。
「……ベッド行こうか」
僕は黙って頷いた。
力が入らない体をそのままベッドまで運ばれて、あれよあれよと言う間に服が脱がされ、僕の眼下には真っ白な裸体が広がった。
眼前には、同じく生まれたままの姿となった、元の僕の体がある。
「目、瞑って」
何をされてしまうんだろう。そわそわしていると、耳元に手が触れた。そのまま眼鏡を外される。
「目、開けていいよ。これで僕のことしか見えなくなったね、文実♡」
「……ひゃい♡……!」
"彼"に名前を呼ばれるだけで、背筋がゾワゾワして、お腹の奥の方がきゅぅぅと熱くなる。周りの景色がぼやけて、目の前が好きな人だけになる。
「大好きだよ、文実」
「ぅ……ぁ……♡」
「大丈夫、声我慢しなくていいよ」
言葉が、自然に耳の奥に染み込んでくる。聞いていると安心してしまうのは、きっと元々自分の声だからだ。
「……ふふっ、こんなに濡らしちゃって。そんなに期待してたんですか?歩武先輩」
「ち、ちがう!これは体が勝手に」
「確かにわたしの体は先輩の声を聞くだけで昂ってしまいますが……でも、それだけじゃこんなふうにはなりませんよ」
「ひゃぁんっ♡!?」
体の力が抜けていく。我慢できない声が不防備に漏れ出る。
「その体のことは誰よりもわかります。だから安心して、わたしに、僕に、全てを委ねて」
「んぁ……っああ゛っ♡!?ぉああっ♡♡!?」
触れられる。その度に体の奥の方から嬌声が絞り出される。
「そろそろ、挿れますね」
「お゛ほお゛お゛お゛ぉぉっ♡♡♡♡♡!?」
ただ、ほんの先っぽが入っただけなのに、雷に撃たれたような衝撃が全身を駆け抜けて、目の前が白黒する。
「お゛お゛っ♡♡……!」
「これだけでイっちゃうなんてね。変態」
「へんたいはっ……きみのほうだろっっんっ!え゛あ゛っ♡♡♡!?」
何を言おうとしても、どんな抵抗も無駄だと、体に教えられてしまう。だめだ、逆らえない。いや、そもそも逆らう必要なんて、ない?
「ねえ、先輩。もう元に戻れなくていいんじゃないですか?」
「そんなこと、ないっ……!」
「先輩、今自分がどんな顔してるか、わかってます?」
"彼"はあの日のように、どこからともなく手鏡を取り出して見せつけてくる。映っていたのは、好きな人に抱かれて、今幸せの絶頂にいる"女"の顔だった。
「……これが……いまの、僕?」
「じゃなくて、わたし、ですよ。言ってみて、そうすると、もっとわたしになれる。もっと気持ちよくなれる、よ?」
「わたし……わたし今、好きな人とっ……あはぁっ!♡♡♡」
わかった。わかってしまった。僕はもう、この人から離れられないんだ。だって、こんなに幸せで、愛されているのに、離れる意味なんてどこにもないんだから。
「このままなら、毎日でも、先輩のこと……いや。文実のこと、僕が幸せにしてあげるよ」
もう、このままでいい。
いや、このままが、いい。
愛する人の体に閉じ込められて、愛する人に愛される。それ以上の幸せなんて、どこにもないんだ。
「もう、一生このままでいい。だからその代わり、ずっと僕と……わたしと、一緒にいてください……先輩」
「……もちろんっ!」
彼は元気に答えて、お望み通りとばかりに再び腰を突き出した。欲しいものが、自分の中に何度も、何度も差し込まれて、その度に頭の中が、身体中が、大好きな人で満たされて、塗りつぶされていく。
「お゛あ゛あ゛あ゛っ♡♡♡!?」
「はぁっ……好きっ!好きですっ!愛してますぅ!」
「んあ゛っ!?すき……すきぃい゛いいっ♡♡♡♡♡!?」
あの日の僕は、自分が消えてしまいそうで怖かった。でも、そうじゃない。僕は僕のまま、好きな人と混ざって、ひとつになるんだ。
「ねえ、そろそろイきそうだよね?一緒にイってくださいよ、先輩っ♡」
「イ、イクっ!いっしょにっ♡」
感じる。もうすぐ、僕の体も、わたしの体も限界だ。彼女がこの体を知り尽くして攻めているのと同じように、僕も相手の体を知り尽くしている。ふたりの体が、心が、快楽と幸福と愛情の中で、溶けて混ざって一つになる。もうすぐ、もうすぐ、全部なくなって、全部始まる。
「はいっ!ずっと、一緒ですよぉぉっ♡♡♡」
「あっ!イくっ!!イぐうううっ♡♡♡♡!?♡♡♡♡♡♡っ!!?……んっ……お゛……ぁ……♡♡♡……っ……」
満たされて、満たして、満たされて、満たして。
その日から僕は、わたしになった。
それから、数日後。
「あやっち!なんか久しぶりだね〜!」
「うん、心配かけてごめんね、美色」
わたしは両見文実として、学校に復帰した。日常生活のことは本人に教えてもらったし、学校では美色が助けてくれるから、あまり困ることはない。
元の体に未練がないかと言われれば、そんなことはない。だが、戻る気はない。
「最近変わったよね、あやっち。前より明るくなったっていうかさ」
「そう?やっぱり彼氏できたからかな」
「いいなー!……あっ噂をすればその彼氏が!」
美色が指差した先には、もともと僕だった人で、いまはわたしの大切な人がいた。彼はこちらに気がつくと、軽く手を振りながら来てくれた。
「おはよう。文実、美色ちゃん」
「おはようございますっ……!」
「おはようございます、会長」
彼の声を聞くだけでお腹が温かくなってくるけど、今は学校なので我慢我慢。美色にこんなことがバレたら大変なことになってしまう。
「あれ。もしかしてあたしお邪魔?じゃあ先教室行ってるねー!」
そんなわたしの様子を察したのかなんなのか、美色はそそくさと去っていってしまった。
「もう、別に美色ちゃんならいいのに」
「あの子、察しいいですから」
あっという間に歩武先輩と2人きり。彼は周りをきょろきょろと誰もいないことを確認してから、わたしの耳元でそっと囁いてきた。
「放課後、うち来て」
わたしは無言で頷き、美色を追いかけるように教室に向かった。