恩返し

まえがき
母と娘の入れ替わり物になります。ダークな展開となるため苦手な方はご注意ください。

桜井楓 16歳 大人しい性格で母親に気を遣っている。
桜井理恵 43歳 きつめの性格で娘のことをあまりよく思っていない。

桜が芽吹き始め温かくなってきた春頃、桜井楓は中学校を卒業して高校一年生になった。
入学式を終えて一週間が経ったばかりだ。ほんの数日前に制服に袖を通したと思ったのにすでに学校ではあわただしい日々が始まっている。
クラスメイトたちの大半がワイワイとはしゃぎながら次々と友人関係を作り上げていく様子を横目に見ながら楓はなるべく目立たないように過ごしていた。どちらかといえばおとなしく、人の輪に自分から飛び込むのは苦手…だからこそ波風を立てないように適度に受け答えし笑顔を作って過ごしている。それが楓が自分の平穏を守るために選んだ処世術だった。

そんな楓には母親が一人いる。名前は桜井理恵…40代前半にしてややきつめの性格だが、外見だけならば少し年齢より若く見えなくもない。実は理恵は楓を十代のうちに妊娠していた。いわゆるデキ婚だったが楓がまだ幼かった頃に夫、楓の父親は突然蒸発してしまいその後は女手一つで娘を育ててきた。

理恵が若くして母になったという事情が母娘の関係性を微妙なものにしているのは確かだった。理恵は仕事に追われる毎日のなかで育児や家事をこなす余裕を失いがちになりその苛立ちや不満がしばしば楓に向けられた。楓も成長するにつれその母の態度に戸惑いを感じていたが幼少期から慣れきってしまっている自分がいた。理不尽を感じても逆らえない…未成年である自分は母親なしには生きられないという現実を楓は幼いながらも悟っていた。お母さんはいつも疲れているんだと自分に言い聞かせながら母親に嫌われないように、怒らせないように一緒に暮らしていた。

だがこの春から楓が高校に入り少し環境が変わったことで理恵の不満はますます強くなっているようだ。家計を支えるために昼はスーパーのレジ打ちパート、夜は熟女として売り出しているキャバクラでの勤務という二重労働をこなしており身体的にも精神的にも疲労は限界に近かった。それでも「娘を高校まで通わせるのは親の義務だし、デキ婚とはいえ娘の…楓の将来を潰すわけにはいかない」そんな意地と過去への後悔がない交ぜになって理恵を突き動かしている。

楓が高校に入学してから一週間ほど経ったある夜、理恵はスーパーのレジ打ちのパートを終え夜のキャバクラに向かうまでの短い休憩時間に街をぶらついていた。
ここ数日、昼の仕事の後にすぐ夜の店へ直行していたがさすがに疲れが溜まっている。少し歩けば気が紛れるかもしれない…そう思って人気の少ない裏通りに入り込んだ。

建物の壁には薄暗い街灯がかろうじて影を落としている。その路地にポツンと古びた露店が出ていたのだ。露店といっても小さなテーブルが1つあるだけでその上に得体の知れない品物が所狭しと並べられている。香炉のようなもの、やけに古めかしい小瓶、そして奇怪な形のアクセサリーなど…。
理恵は最初見ないふりをして通り過ぎようとした。だが、ふと視線を上げた瞬間店主と目が合った。店主は小柄な老人で深く刻まれた皺のせいか年齢を推測しづらい。ぼんやりとした街灯に照らし出されるその顔は一見すると優しげでありながらどこか底知れない影を抱えているようにも見える。

「お客さん、ちょっと見ていかないかい?」

あまりにも自然に声をかけられたため、理恵は「あ、はい」と反射的に返事をしてしまった。自分で自分が不思議だった。本来ならこんな怪しげな店に関わることはないのに、なぜか嫌な予感がするより先に足を止めていた。

「珍しい品がいろいろあるんだよ。たとえば…」

老人はテーブルの上を一通り見渡す。すると何かを思い出したかのように小さな木箱を取り出した。

「お客さんにおすすめしたいのはこれだね」

木箱の蓋を開けると、中にはカプセルのようなものが数個入っている。その見た目は薬の錠剤カプセルに近いが色が妙にくすんでいて質感が普通じゃない。

「これは、他人と入れ替わる薬だよ」

まるで突拍子もないジョークだ。理恵は思わず苦笑した。しかし老人はまったく冗談めいた様子を見せず神妙な面持ちで言葉を続ける。

「お互いに薬を飲むと、その人同士の身体が入れ替わる。ただし条件がある。両者が同じタイミングで飲むこと、ほぼ同時に飲まないと効果はない。」

さすがに怪しすぎると理恵は思った。だがその不思議な雰囲気に引き寄せられるように、話を聞くのをやめられない。

「こんなの信じられませんけど」と口にしながらも理恵の脳裏には、もし本当ならどうだろう?という考えがかすめる。

もしも高校生の娘と入れ替われたら私はもう少し楽に生きられるだろうか…若い身体と時間を取り戻せたらあのころとは違う人生をやり直せるのではないか…

冗談半分、好奇心半分。それでも理恵の中には確かなやり直したいという思いがあった。十代の頃に妊娠し、相手の男は蒸発。同級生が享受していた青春や将来への準備期間を、理恵はほとんど持てなかったのだ。

店主は理恵のそうした心境を見透かしたかのように、にやりと笑った。

「使い方は簡単だよ。一本ずつ飲むだけ。まあ、試しにどうかね?騙されたと思って。」

値段を聞いてみると、意外にも法外ではなかった。むしろ激安とも言えないが、こんな得体の知れない薬としてはリアリティのある金額だ。

怪しいとは思いつつも、妙に納得させられてしまう空気がそこにはあった。理恵は財布を取り出し、必要な金額を数える。

まさか、こんな突拍子もないものを私が買うなんて…。理恵は自嘲気味に笑いながらも「じゃあ、これをください」と言ってしまっていた。店主は満足そうに微笑み、念押しするように「あくまで自己責任でね」と小声で付け加える。

理恵はそそくさと薬をカバンの奥にしまい、その場を離れた。何だか夢うつつのような気分で、今起こったことのすべてが半信半疑だった。

「私はもう学生じゃない。そんな魔法みたいな話が現実にあるわけがない」

そう自分に言い聞かせながらも心のどこかでもし本当に入れ替われたら人生をやり直せるという期待が膨らんでいくのを感じるのだった。

理恵はキャバクラでの勤務を終えた深夜、帰宅して着替えもそこそこにソファへ腰掛ける。普段ならすぐにシャワーを浴びて寝てしまうところだが、今日は奇妙な買い物をしてしまったせいで頭が冴えてしまっている。カバンの奥底に仕舞った小さな木箱。あれを取り出し机の上に置いてみる。
もう一度蓋を開けてみると、くすんだ色のカプセルが数個ある。店主は「必ず二人同時に飲むこと」と言っていた。

「……本当に入れ替わるなんて、馬鹿げているよね」

そう呟きながらも、娘の楓の顔が脳裏をよぎる。面倒くさい年頃だし最近は会話もギスギスしがちだ。だが、もし本当に入れ替われたのなら…。

理恵はテーブルの上で、再び木箱を閉じる。そこにあるのはただの空想かもしれないし、実際には何の効果もない駄菓子のようなものかもしれない。
しかし、その夜、理恵は眠りにつくまでの間、「もしこの薬が効いたなら」という想像にとらわれ続けた。

「自分が楓と入れ替われば楓として学生生活をやり直せる…年老いた古い体もしたくもない仕事も娘に押し付けて…新しい恋だってできるかもしれない…」

打算的で浅ましいとも思う。だが理恵にとって あのときの選択肢がなかった人生と比べるとあまりにも魅力的だった。

「私が一人で楓を育ててきたんだから、少しぐらい楽してもいいじゃない」

いつしかそんな言い訳めいた言葉まで頭に浮かぶ。

翌朝、楓はいつも通り起きてきた。制服姿でリビングに現れる娘を見る理恵の目には、今までとは違う感情がにじむ。
若くて、未来があってそれをまだ知らずに生きている存在それが娘だ。しかも、その身体は自分が産んだ子というだけあってどこか面影もありけれど自分よりずっと新しい。

「おはようお母さん…」
「……おはよう」

わずかに噛み合わない、ぎこちない挨拶を交わして楓はトーストをかじり始めた。理恵は考える。あの薬、本当に試すべきなんだろうか…と。

それから数日が過ぎた。楓は新しいクラスに少しずつ慣れ始め、たまにクラスメイトとのやり取りで笑顔を見せるようになっていた。だが、一方の理恵は相変わらず多忙の連続。昼のパート、夜のキャバクラ、少ない睡眠とイライラ。

そんなある日の仕事帰りふと最初に薬を買った露店の前を通ってみたがもうそこには何もなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、老人の姿すら見当たらない。

「…やっぱり、あれは幻かもしれないわね…」

そう思いながら帰宅した理恵だが玄関の扉を開けた瞬間、またあの小箱の存在を思い出した。もしただのペテンならそれでいい。しかし一度でも娘と入れ替わるという幻想を抱いてしまった以上気になって仕方がない。

理恵は夜ご飯を作りながら、その薬のことを考え続けた。そしてふと「娘と私、二人ともが飲み物を飲むタイミングがある」といえば、夕食のときしかないと気づく。

楓が学校から帰ってきて部屋にこもり、やがてリビングに顔を出す頃には、理恵はこっそり小箱を開いていた。

「夕飯、できたわよ」
「あ、うん」

楓は数学の宿題を中途半端に終わらせたままリビングへ向かった。テーブルの上には炒め物と味噌汁、ご飯が並んでいる。理恵はキッチンに戻りクローゼットの裏に隠していた薬のカプセルを手に取った。飲み物は麦茶でいいだろう。

いつも使っているコップに、さりげなく薬を一粒ずつ入れる。見た目はほとんど色がついていないから、溶けてしまえば気づかれないはずだ。あとは飲むタイミングだけを合わせるようにすればいい。

気づけば理恵は、まったくためらうことなくその一連の行動をこなしていた。どこかで「本当にこんなことをするの?」と冷静な自分が問いかけている気がするがそれを振り払うようにカップをテーブルに並べる。

「ほら、楓も飲み物入れたから」

「ありがとう」

娘が箸を置きグラスを手に取る。その様子を見ながら理恵も自分のグラスを握った。心臓がドキドキと高鳴る。

「……何?」

娘は母を見上げる。「変な顔してるよ」とでも言いたげだった。

理恵は慌ててぎこちない笑顔を作る。そして一気に麦茶を流し込む。楓も母の様子を見つつ、少し遅れてお茶を口にする。

数秒、何も起こらない。ただ食卓の時間が静かに流れるだけだった。理恵は「やっぱりただのインチキか」と失望しかける。

だが次の瞬間、身体の芯が急激にしびれるような感覚が走った。視界がぐにゃりと歪んだと思ったら瞬きをする間に床やテーブルが急に高くなる。まるで世界全体が上下逆になったかのようだ。

理恵は思わず悲鳴をあげようとするが、声が出ない。いや声帯が自分のものではない気がする。周囲が薄暗いのか明るいのかさえ、よく分からなくなってきた。

「……え? え?」

聞こえてきたのは、確かに楓の声。だが、その声を発しているのは誰だ? 理恵は視線を下に落とし、自分の手を見る。そこにあるのは、いつも見慣れた母親の手ではなく、細くて若いまだ子どものような手首だ。

「嘘……本当に入れ替わったの…?」

姿見の前にあわてて移動して姿見を覗き込む…そこには自分が今まで見ていたはずの楓の姿があった。だが、その楓を今は自分が動かしている…自分が「母親」ではなくて「娘」になったことに驚きと興奮が隠しきれない。

「やった…!本当にやったわ!」

楓の姿をした理恵は歓喜の声をあげる。一方、母親の姿になってしまった楓は、驚きで言葉を失いながらもテーブルに置かれた醤油や茶碗をひっくり返しそうになって立ち上がる。

「なにこれ…お母さんどういうこと?」

「私だって知らないわよ。変な店で薬を買っただけだし。本当に入れ替われるなんて、思わなかったわ」

うそぶくように言いながらもその口元には明らかに抑えきれない喜びが漂っていた。

最初に混乱したのは母の身体に入ってしまった楓の方だった。
「こんなの…ひどいよ…元に戻せるの?」
「知らないわよ。そういう話は店主から聞かなかったもの」

予想外に冷淡な態度を示す娘の姿の理恵を見て楓は愕然とする。
「だって、お母さんが買ったんでしょ? なんで戻る方法も聞かなかったのよ!」

「あのお店、もうどこにも見当たらないのよ。私だって探したわ。まあ、私たちでどうにかするしかないでしょう」

言葉の端々に含まれる悪意を、楓は確かに感じた。まさか母親が、こんなにも喜々として自分の身体を奪うなんて思いもしなかったのだ。

「とりあえず、私たちはお互いのフリをするしかないわね!私が桜井楓として生活して、あなたは桜井理恵として私の仕事をこなす。そうしないと、周りに怪しまれるでしょう?」

「ふ、ふざけないで。そんなの嫌だよ……」

だが理恵は一瞬目を細めると冷ややかな笑みを浮かべた。
「こんなに育ててあげたのにここで協力しないっていうの? 今度はあなたが私の代わりに頑張りなさいよ。恩返しってやつよ」

育ててくれたのは事実だ。だが楓にとっては当たり前のように与えられた親子という関係が、今この瞬間まるで取引材料のように持ち出されている。

結局その場で激しく言い合いをしても理恵はまったく引き下がらない。むしろあなたが納得しなくてももう入れ替わっちゃってるんだからしょうがないでしょう?と開き直る始末。

気がつけば時刻は深夜に近づいていた。翌日も高校はあるし理恵の方は朝からスーパーのパートがある。考えてみれば、確かに今すぐ元に戻る方法が見つからない以上このまま日常を回していくしかない。

楓は仕方なく理恵の提案どおり母親のフリをするということで落ち着いた。といっても嫌々どころではない。しかし仕事をしないわけにはいかず、学校に行かないわけにもいかない。今は混乱を抑え翌日の段取りだけは決めておかなくてはならなかった。そして理恵は楓の…自分の部屋へ、楓も理恵の…自分の部屋へと戻り眠りにつくのだった。

翌朝、桜井理恵の身体をした楓は重たい頭と身体を引きずるように起きた。起床時間はいつも楓が起きていた時間より早い。朝食の準備をして、自分の弁当を詰めてさらに娘となった理恵の分も必要かと思ったが理恵は「朝飯はパンとコーヒーでいい」と言うだけだった。昨日楓になった理恵から家の中でもお互いになりきらないと外でボロが出るということでいつもの家事の役割も全て入れ替えるということになった。

慣れない手つきで家事をこなそうとする楓を見下ろすように、楓の制服を着た理恵は鏡の前ではしゃいでいる。

「うわぁ…やっぱり制服姿っていいわね。しかもピチピチ!ウエストこんなに細かったっけ? あら結構胸はあるのね、楓って…」

「変なことしないでよ…」

軽口を叩く理恵を横目に、楓はどこか屈辱的な気持ちを覚えながらフライパンで卵を焼く。まさか自分が母親役をやらされるなんて。しかも自分の身体は目の前で母親に使われているのだ。

やがて理恵は「行ってきます」と元気よく家を出ていった。楓はキッチンに立ち尽くしたままその背中を見送るしかなかった。

理恵を見送った後楓が向かったのは理恵が働いているスーパーのレジ打ちの職場。幸いレジ打ちは機械の画面に従ってバーコードを読み取ればいいのだが、接客用語や同僚とのやり取りはかなり戸惑った。

「桜井さん、おはようございます!」

「……お、おはようございます」

周囲には理恵の雰囲気を知っているはずの同僚がたくさんいる。楓は声のトーンやしゃべり方をどうすればいいのかも分からない。何度も心臓が縮み上がりそうになる。

昼休憩になると同僚の女性たちが当たり前のように楓(理恵の身体)を休憩室に誘う。そこで交わされる会話は、夫の愚痴、子どもの進学、ローンの話、スーパーの売り出し品の話題…楓にはまるで外国語のようだった。

しかし理恵の普段の振る舞いを推測しながら、適当に相槌を打つしかない。

「うちも子どもが高校生だからさ、出費が大変で……」

「そ、そうですよね。高校は……色々お金かかりますよね……」

その場をしのげても内心は冷や汗の連続だ。しかも楓の身体はもともと若いが、中身は40代の母親である同僚たちとは話が合わないなんて次元じゃない。たった半日のパートがこんなにも辛いとは思っていなかった。

そして仕事を終えて帰る頃には足が棒のように疲れていた。だが楓(理恵の身体)にはまだ夕方から夜にかけてのキャバクラ勤務が残っているのだ。考えただけで気が遠くなりそうだった。夜の店は、理恵が働いている熟女キャバクラと呼ばれるところだ。そこそこ年齢の上の女性たちがお酒を交えながら客をもてなす場所。
もちろん楓はそんなところに行ったことはない。接客どころかお酒だって飲める歳ではない。けれど身体は母親なのだから年齢的にも違和感はないはずだ。問題はどう振る舞うかということだ。

「お疲れ様です」

店のママやホールスタッフが挨拶をかけてくる。理恵の顔を知っているはずだから当然呼び名も理恵さんだ。
楓は震える声を何とか抑えながら「よろしくお願いします……」とだけ言った。

席につくと、相手をするのは自分よりずっと年上の男性客もいれば意外と若めの客もいる。客が楽しければそれでいいらしくキャバクラは基本的に疑似恋愛の場だ。べたべた触られることはないが、ボディタッチや下ネタまがいの会話も珍しくない。

「今日はなんだかおとなしめだね、理恵ちゃん」
「そ、そうですか……」

どう返事をしたらいいのかわからない。母親の身体は化粧もそこそこ派手だし、服装も露出が少なくはない。鏡に映る中年女性の姿は、紛れもなく桜井理恵…それを自分が操っているという現実に、楓は何度も吐き気を覚えそうになった。

夜も更け、店が閉まる時間になるころには楓は心身ともに限界だった。足のむくみやヒールの痛みよりも、男性客の下卑た視線や会話に耐える精神的ストレスが大きい。自宅に帰るタクシー代をケチろうと深夜バスや電車を利用するにしても、体力的にかなりきつい。

ようやく家にたどり着いたときには、日付が変わっているのが当たり前。朝も早いというのに、寝る時間はわずかしか取れない。この生活を母はずっと続けていたのかと実感する一方で楓は自分が本当にこれを続けられるのかという不安に苛まれた。

一方、娘になった理恵はほとんど夢のような体験をしていた。
朝から高校の校門を通り抜け、制服姿で教室へ行く。クラスメイトたちはまだ入学一週間だからか楓が本来どんな性格かはそこまで把握していない。理恵が多少キャラを変えても、周りは「あれ、ちょっとテンション高いな?」くらいの違和感しか持たないようだ。

授業に関しても、内容は10代のころに一応受けたことはある。もっとももう何十年も前のことで忘れている部分は多いがそれでも教科書を開けば何となく思い出す知識はあるし、若い脳に乗り換えたせいか新しいことの吸収が早い気すらする。休み時間になると同年代の男子が話しかけてくることもある。

「なあ楓、部活とかどうするんだ?」

「え、まだ決めてないんだけど…オススメある?」

本来の楓ならばおとなしく会話を終わらせるかもしれないが、今の理恵は興奮気味に元気よく笑顔でコミュニケーションをとる。すると周りも意外と話しやすいやつだなと認識してくれるらしく、理恵はすぐにクラスの中で人気者になりつつあった。

昼休みには学食や購買を覗いてみたり、クラスメイトと一緒にお弁当を食べてみたり、放課後にはカラオケに誘われたり…本来の楓がやったことのないような学生らしい交流を次々と楽しんでいく。

「ねえ楓、もしよかったら今度一緒に帰らない?」

「いいよいいよ、今日でも全然いいけど?」

気づけば男友達からやや特別な視線を向けられ始める。理恵はそれを察知するたびに、内心で まだまだイケるわよ、私と陶酔感を味わう。もはや娘の身体を自分の好きなように使っているという罪悪感は薄れ、むしろ青春を取り戻したような喜びが大きくなっていくばかりだ。

そして、ある日の放課後。クラスメイトの男子が理恵を呼び止めた。

「楓……ちょっと話があるんだけど、いい?」

理恵が「何?」と無邪気に笑顔を見せると、男子は顔を赤らめながら、廊下で告白めいた言葉を口にした。

「その……俺、楓のことが好きなんだ。よかったら、付き合ってほしい」

突然の告白…本来なら高校生には一大イベントだ。理恵は驚きながらも、心臓を高鳴らせている自分を感じた。

(私は桜井理恵、40代の女性だったはず。それが今はまるで本当に女子高生。しかも告白されるなんて…)

目の前の男子は、あどけない表情をしているが、理恵にとっては自分よりも数十歳年下の男の子。
しかし、今の身体は楓だし周囲から見れば理恵はただの女子高生である。

(どうする? ここでOKしたら……私、本当に楓として生き続けることになるんじゃない?)

そう思うと、ますます体内を駆け巡る興奮が抑えられない。結局理恵は曖昧に微笑んで「ありがとう。ちょっと考えさせて」と返事を保留するがその表情から察するに可能性は十分ありそうだ、と男子に思わせたことだろう。

教室を出るとき、理恵の頭の中には戻りたいという文字は一つもなかった。むしろ元に戻りたくないという気持ちが日に日に強くなっていくのを感じていた。

元の「楓」の身体を奪われてしまった理恵の身体の楓は、地獄のような日々を送っていた。
スーパーのレジ打ちはまだしも夜のキャバクラが辛い。その疲労が翌日に残り、土日もほとんど休みがなく家事もしなければならない。

ある夜のキャバクラでは、客として来ていた男が妙に楓(理恵の身体)を気に入り、しつこく連絡先を聞いてきた。

「ねえ、理恵ちゃん、LINE教えてよ。おれ、今度プライベートで会いたいな」

拒否すれば店の売り上げに影響があるかもしれない。妙なクレームを入れられても困る。店には店のルールがある。楓は結局、男のしつこさと店の圧力に耐え切れず、しぶしぶLINEの連絡先を教えてしまった。

その後も深夜に何度もメッセージが入る。「今度一緒に飲みに行こう、理恵ちゃんがいないと寂しいよ」といった軽いナンパのような文面。楓は既読をつけるのも嫌だったが、母親の仕事や信用に関わると考えると無視し続けるのもまずそうだと感じ最低限の返事をするしかなかった。

心身共に追い詰められる楓は、学校で青春を謳歌している母親の姿を想像するだけで、猛烈な不公平感と怒りに襲われる。

(どうしてこんなことになっちゃったの…!私、戻りたいよ。どうにかお母さんを説得して元に戻らなきゃ…)

ある夜、楓は理恵が帰宅するのを待ち構えた。理恵はクラスメイトとカラオケに行きその後ファミレスでおしゃべりをして帰るというまさに JKライフを堪能してきたようで、笑顔のまま「ただいまー」と玄関を開ける。
母親の顔をした楓はソファで待ち受けていた。

「お母さん…私、もう限界だよ。元に戻して。あなたの仕事、私には無理。毎日辛い。戻れないならその方法を一緒に探そうよ」

今にも泣きそうな表情で頼み込む楓。しかし、娘の顔をした理恵は、それを鼻で笑うように聞き流した。

「私も方法を探してるわよ。あのお店が見つかればいいけど、どうにもならないものはしょうがないじゃない」

「あれ、嘘でしょ? 全然探してなんかいないよね。私がどんなに辛い思いをしても、お母さんは平気なんだ」

理恵の表情が一瞬強張るが、すぐに開き直ったような笑みに変わる。

「だって、私は桜井楓になれたのよ。わざわざそんな幸せ手放す必要ある?」

「あんた……!」

思わず口汚く言いかけて、楓は歯を食いしばる。
理恵は悪びれることなく続ける。

「あなたは私の苦労なんて分からないでしょ。十代で妊娠して頼れる相手もいなくて。あなたを育てるためにやりたいことも何もできなかったんだからね。そのツケを払うのはあなたでいいじゃない」

「だからってこんなの……!」

楓は激しく怒りをぶつけようとするが、母親の身体は疲労しきっていて声もうまく出ない。
理恵はそんな楓を見下すように、「今のお母さんって、本当に惨めね」と笑う。

激しい怒りと絶望で楓は頭を抱えるしかなかった。

時が経つにつれ、理恵はますます楓としての生活を充実させていった。授業にもそれなりについていけるし、友達との関係も良好だ。何より自分に好意を寄せる男子がいるという優越感がたまらない。

一方、楓はスーパーとキャバクラを掛け持ちし少ない睡眠時間の中で家事をこなす日々。体力も限界を超えつつあった。
そんなとき、あのしつこい男性客から店外デートへの誘いが再び送られてきた。

「明日の夜、空いてる? もっと仲良くなりたいんだけどさ」

無視しようか迷ったが、職場の女性スタッフからは「客をないがしろにすると面倒なことになる」という注意を受けていた。仕方なく「少しだけなら」と返事をする。

待ち合わせは居酒屋。お酒が進むとその男はさらに馴れ馴れしくなり体に触れてこようとする。楓は拒絶感でいっぱいだったが、母親の身体でも酒量をうまくセーブできず酔いがまわってきたところで相手にタクシーへ押し込まれるように連れ出された。

(まずい…こんなところで変なことになったら…)

しかし男はあくまで店の女の子として楓を見ているらしくしきりに口説き文句を並べてくる。楓の意識がだんだんぼやけるなかどうにかして逃げようとするが、身体が思うように動かない。

結局、その夜は危険な場面ギリギリで男が「急用が出来たからまた今度ね」とホテルの前で引き下がったため、最悪の事態は免れたが、楓の心はボロボロだった。こんな生活もう嫌だという思いが益々強くなっていく。

楓はある夜、再び理恵を問い詰めた。

「私、もう本当に無理。店の客に迫られたり、体調も悪くて…どうにかして元に戻る方法を探そうよ!大体お母さんももう一回高校生をやりたいって気持ちは分からなくはないけど、こんなのおかしいよ!」

しかし理恵はまるで意に介さない。

「うるさいわね、私はね…こんなチャンス二度とないと思ってるの…だから元に戻る気なんて正直ないわ」

「……え?」

呆然とする楓に理恵は冷酷な言葉を続ける。

「言ったでしょ、あなたが恩を返す番だって。私があなたを産んだという事実は変わらないの。だから桜井理恵としての人生をあんたが背負いなさいよ。私の代わりに働いて、生活費を稼いで私が…桜井楓が快適に学生生活を送れるようにしてくれたらそれでいい」

あまりにも身勝手な理屈に楓は声を失う。けれど訴えたところで誰も信じてくれないだろう。身体は中年女性、他人が見れば桜井理恵という母親そのもの。こんな現実どこに助けを求めたところで理解されるはずもなかった。

「……最低だよ……」

か細い声でそう呟いても、娘の姿をした理恵はまるで聞こえないかのようだった。

そして、理恵は高校のテスト勉強や友達との遊びにかまけて家にはほとんどいない。楓は朝から晩まで働きづめで、わずかな稼ぎを生活費に充てながら理恵としての日々をなんとか務めるのだった。
店主も露店も見つからず、理恵にその意思がない以上、楓は打つ手を失ったまま桜井理恵として生きていくしかなくなった。
理恵は楓の体を使い今までできなかった青春を謳歌するという望みを叶えたのだった。くたびれた中年の体ではなくピチピチの10代の体、娘に買っていた可愛い服や下着、そして青春の象徴とも言える高校の制服…それらを自分が着て周りから可愛いと言われたり明らかに男性の視線が自分の体に向けられているという事実に理恵の承認欲求は満たされていった。
楓は40代のくたびれた中年女性の体を押し付けられ…そして本来自分のものであったはずの青春を母親に奪われ絶望の日々だった。
入れ替わってしばらくはお互い精神の名前で呼び合っていたが1ヶ月ほどすると理恵から体の名前で呼ぶよう諭され今では元自分の体を「楓」と呼び、理恵からは「お母さん」と呼ばれている。いつかは戻れるかもしれないという淡い希望は楓の中にはもうほとんど残っていなかった。今日も「娘」を見送りパートへの準備をするのだった…。

あとがき
読んでいただきありがとうございました。pixivの方に過去作品なども載せてますのでよければのぞいていってください。Xにリンクも載せてます。

ページ最上部に移動