ゴールドラッシュ

独房の中の囚人。いや、鳥かごの鳥?首輪を掛けられた犬…、ああ生簀の中の鯉っていうのがしっくりくるなあ。木漏れ日が差し込む部屋の一角で今日も、私はまた取り留めのないことに思考を巡らす。何せ暇なのだ。ここには本も、テレビも、スマホすらない。何かを考えていないと呆けてしまうだろう。それこそ自分が人間であるということさえも…。

(痛っ…!)

ゆらりゆらりと部屋の中を彷徨う私を透明な壁が妨げる。これにぶつかるのももう何度目だろうか。手でおでこを押さえることすら叶わないのだからやるせない。

どん…どんっ…どんんっ…

そんな私のことなど気にもせず、遠くから地響きが近づいてくる。主が帰ってきたのだ。突如私の部屋は影に覆われ、四方八方の壁はある一体の怪物を映し出した。そして…。

「ただいま帰宅しました。恵梨香様!」

広い天井のその全てを覆い隠し、巨人が私の部屋を覗き込む。…いや、巨人ではない。彼女はただの人間なのだから。…私の身体がおかしいのである。

「お腹すきましたよね?ほら、餌…ご飯持ってきましたよ」

コツコツコツ…。遥か上空でゴングが響き渡ると、私は条件反射的に空に向かって翔け上がる。ううん、泳ぐ。そして天井から降り注ぐ食料にむしゃむしゃと齧り付くのだ。

「ふふふ…。ちょっと水槽濁ってきましたね。後で掃除しますから!」

そう。“今の”私は人間ではない。哺乳類でもないから肺で呼吸すらしない。鉢の中で一生を終えるオレンジ色が鮮やかな観賞魚…“金魚”なのだ。

だけど生まれた時からではない…というかついこの前まで人間だったのだ。そしてあと数日で人間に、眼の前の巨人の身体に戻る予定である。私は金魚と身体が入れ替わってしまったのだ。
事の経緯は1年前まで遡る。

※※※

「堀米恵梨香さんですね?わざわざご足労ありがとうございます」
「あ…あの、私に何の御用でしょうか?」

中学3年生の冬。私は一人学校の応接間に呼び出された。なにか叱られる様な粗相をした覚えは勿論無い。私は誰の気にも障らぬよう、日陰で息を潜めながら生きているのだから。黒いスーツに身を包んだ、20代後半くらいの女性は立ち上がり、微笑みながら私を見下ろす。

「私、内閣府特別理化学調査室の早乙女と申します。単刀直入に申し上げますと、貴女に協力していただきたいことがあってお邪魔しました」

急に飛び出した漢字の羅列にくらくらする。内閣府?この女は一体何を言っているのだろう。私はただのどこにでもいる女子中学生だぞ?そんな子供に何を頼むというのだ。そもそも本当にこの人は政府の人間なのか?…いや、教師がこの部屋に通したくらいだからそれは本当なのだろう…か?

「我が国は近い将来、人が肉体の制約から開放された社会の実現を目指しています。望む人は誰でも身体的能力、認知能力及び知覚能力をトップレベルまで拡張…いや、ごめんなさい。中学生には面白くない話ですよね。簡単に言うと…魂を肉体から切り離して、別の肉体に乗せる研究をしているの。『転校生』…『君の名は』って映画ご存知かしら」

私はオカルトの勧誘でも受けているのだろうか。あんまりに荒唐無稽な話に愛想笑いすら出てこない。もしかしてこれは新手のいじめかドッキリか?二人だけの密室の中、私は一歩後退りをする。

「まあ…いきなり信じろと言うのも難しいですよね。でも本当なのですよ?実際にもう何人もの人間の魂の交換…入れ替わりは国内で実証されているのです。事例を取り上げますと…」

私を置いてきぼりにしたまま、役人は饒舌に言葉を吐き出す。およそ十分もの独唱の後、ようやく息を切らしたのかペットボトルの水を口に含んだ。

「ふう…、というわけで、貴女の身体は今回の実験において適正値が極めて高いのです。科学の進歩のためにもご協力いただけませんか?」

結局、彼女の言っている内容の半分も理解できなかった。しかし、こんな危険そうなことに協力してはいけないことだけは分かる。彼女には申し訳ないがもう断って帰ろう。

「勿論お礼はさせていただきますよ。1年間実験にご協力いただけるのであれば、貴女が志望されている白樺高等学校へは特待生として推薦させていただきます。また、学費についても全額免除、高校在学中の生活費についても保証させていただきます」

「やりますっ!…、…へ?」

またやってしまった。考えるより先に口が動いてしまった。目先の餌につられてとんでもないことに安請け合いを…。
そこからの展開は急転直下すぎてあまり覚えていない。何枚もの書類に署名や印を押し、3日後には研究室で白衣を着ていた。クラスメイトには交通事故での休学、両親には受験追い込みのための合宿ということで説明がされたらしい。普通ならそんなごまかしは通用しないだろう。が、…まあ私のことなんか皆興味ないから通用してしまった。そういう対人関係あっての人選だったのかもしれない。

「…あの、私って誰と入れ替えられるんですか?」

手術台で私の四肢を固定し終え、なにやら機械を操作している白衣の男に問う。
我ながら抜けていると思うが、年齢、性別、人種…そういった情報は何も聞いていなかったのだ。もの凄い美少女とか…イケメンだったら少しは楽しいかも…そんな淡い期待を抱いていた私の幻想はあっけなく打ち砕かれる。

「リュウキン金魚のメスです」
「は?」

バチバチバチ!

突如頭の中に電流が走り、気がつけば私は気を失っていた。

※※※

成功だ!素晴らしい!…そんな声がぼんやりと遠くから聞こえるが、何やら聞きづらい。それこそ水の中にいる時のようにぼやけている。私は何を…。
混濁とした意識の中、徐々に視界が鮮明になる。背丈を優に超えるような水草があたり一面を覆い、キラキラと光を反射している。拳ほどある大きさの泡が下から上へ、下から上へと湧き上がっている光景は中々圧巻だ。まるで重力が無いかのように私は宙から辺りを見下ろし世界を俯瞰する。これは夢なのだろうか。…夢などではなかった。

(きゃ…きゃあああああ!)

声にならない叫びを放つ。上方に目を向けると、月のように巨大な瞳がジッとこちらを凝視しているのだ。いや、瞳だけではない。巨大すぎて全貌を認識することすら困難なほどの人間が私一点を見下ろしているのだ。

(もしかしてこいつって…?)

その巨人の顔には見覚えがあった。血が通っていないような白い肌。ぱさつき、枝分かれした黒髪。猛禽類を思わすギョロッとした瞳…。15年間コンプレックスの塊だったのだ。忘れるはずもない。

(私…なの?)

ようやく男の言葉を思い出す。私は…私は金魚と入れ替わってしまったのだ。

※※※

思い出話はこれ位にしておこう。…いや、そもそもそれ位しか思い出もないのだ。陸上生物ならまだしも、私は一歩も水槽から出られない。無論言葉も話せないから、ただ水の中を漂い、たまにドライフードをかじっていただけなのだ。
まあその一方で、私の身体の金魚は目覚ましい進歩をこの1年で遂げていた。最初の数日は当に人の形をした魚といった感じで床を這っていたが、今では軽快に言葉を操り、この私の世話まで申し出ている。役人の早乙女さん曰く、短期間でスパイを育成する際の言語メソッドを応用して教育したらしい。

(このコ今、白樺高校通ってるんだよね…)

考えてみると、志望校の合格欲しさに身体を交換したのに、私の高校ライフの大事な1年はこの金魚に奪われてしまったのだ。やるせない。…やるせないことはそれだけでない。私の身体になった金魚はいつの間にか見違えるほど垢抜けてしまった。メイクなのか、髪型なのか、はたまた中身が代わったからなのかは分からないが、今の私は…正直可愛い。まるで金魚の方が私の身体に相応しいと言われているようで胃がムズムズする。
(ま、まあ…、この身体は私が引き継ぐんだし、あとちょっとの辛抱…か)

※※※

「堀米さーん?大丈夫ですかー?」

息ができない。身体が潰れるように重い。これは重力のせいか?漸く1年が経過し、晴れて人間の身体に戻ることができたというのに、私は釣り上げられた魚のように床を跳ねていた。

「堀米さん、貴女にはもうエラは無いのよ?ほら、肺で呼吸しなさい。ひーっ、ふーって」

なんと情けないことか。長期間魚の身体でいた私は、すっかり人間の本能を忘れてしまっていた。口をパクパクと開き、手足を前後に振るう。立ち上がることすらできず、惨めに這いつくばうしかない。…これじゃあそれこそ人間の形をした魚だ。

“ふふ…、これじゃあどっちが人間だったか分からないわね…”

ふとそんな声が聞こえて顔が熱くなる。

「堀米さん。1週間後から高校復帰するのだから、これからしっかり人間のことを勉強しましょうね」

まるで人間ではない…人間なりたての金魚に話しかけた時のように、早乙女さんは私に言葉を投げ掛けた。

※※※

(大丈夫、大丈夫、大丈夫…)

ついにこの時が来てしまった。私は憧れだった制服…それなのに、ついこの前まで誰かが着ていたかのようなお古のそれに袖を通し、校門の前でオロオロと立ち往生していた。

(どうしよう…。私、変じゃないかな…。うう…)

人間に戻ってからの一週間、どうにか人間の“振り”をして歩いたり、簡単な言葉を話せるようにはなった。しかし、どうしてもしっくりこない。これは慣れでどうにかなるものなのだろうか。

(いやいや、何よ慣れって!私は人間なのに、どうしてこんな思いを…。)

やっぱり今日は帰ろうか。そうだ、もう少し休憩して、またそれから…、そんな甘えたことを考えていた私の目の前に、突如人影が躍り出る。

「久しぶりー!委員長!…あれ、今日は髪ボサボサじゃん。どしたの?」

急なことに全身の器官が凍りつく。金髪、ピアス、際どいスカート…。明らかに今まで私が付き合ったことのないタイプの人間だ。金魚の奴、こんな陽キャと交流があったのか…。いや、待てよ。委員長?

「本当にどうしたの?口パクパクさせちゃって。ほら、早く行こ?」

「まっ、待っへ…!」

少女は私の手を掴み、どんどんと魔境の奥へと踏み込んで行った。

※※※

(はあ…疲れた…)

昼休み。私は周囲からのお弁当の誘いを断り、トイレの個室に籠もっていた。

(本当に何なの…、なんで皆私に話しかけてきて…。ふふっ…、…)

堀米恵梨香はこの学校の人気者であったらしい。男子も女子も、1週間授業を休んだ私を心配して次々と話しかけてきた。万年日陰者であった私じゃあり得ない話である。

(…いや、私じゃ…ない…か)

そう。皆が話しかけたいのは堀米恵梨香のガワをした“金魚”なのだ。なにせ、この学校に私を知っている人間は一人もいない。この身体は私の物なのに、この学校の生徒にとっての堀米恵梨香は100%あの金魚なのである。
もうあと少しで授業が始まる。午前中の数学はちんぷんかんぷんだった。果たして私はついていくことができるのだろうか…。

※※※

「うう…どうしよう。これじゃ、赤点だよ…」

(ほら、顔上げて!まだ時間はあるし、頑張ろうよ恵梨香ちゃん!)

私は一人、自室に籠もって教科書に向かい合う。…いや、正確にはもう一匹部屋にいるのだ。学習机の一角。丸みを帯びた水槽の中にプカプカと浮かぶ観賞魚。10日前まで人間だった金魚が私の手元を覗き込む。

(ほら、2行目の方程式。そこの計算間違ってるよ!)

「う、煩いわねぇ…。なんであんたに勉強教わらなきゃいけないのよ…」

馬鹿みたいな話だが、身体を元に戻して以降、私は金魚の考えていることが分かるようになっていた。察しの精神とかそういうものじゃなくて…おそらくテレパシーに類するものだろう。まあ同じ脳を使って生活していたのだ。入れ替わりなんていう物がある以上驚くことでもない。

(でも恵梨香ちゃん、特待生だから赤点取ると退学だよ?それに私、1年間ずっと学年1位だったからキープして欲しいなあ)

唇を噛みしめる。金魚は成績まで良かったようだ。それに比べて私はまるで勉強についていけなくなっていた。それもそうだろう。そもそもこの学校は私の成績では入れなかったような進学校なのである。それに加えて1年間のブランク…、なにより、動物として1年呆けていたのが不味かったようだ。おそらく学校最悪レベルだろう。

「これじゃあ何のために私身体入れ替えたのよ…、…っ!」
ふと、役人の早乙女さんが言っていたことを思い出す。最悪の発想だ。…しかし、もうこれに縋るしかない。
※※※

「委員長やっぱすげー!全教科1位かよ!」

「あの物理で満点取るのエグいでしょ!」
ガヤガヤガヤ…。クラスは一人の少女を取り囲んで次々と祝福を送る。

「恵梨香ちゃん元に戻って本当に良かったよ!最近…ほらっ、1週間病欠した後くらいからちょっと変だったじゃない?」

「そうそう!口パクパクして魚かっつーのっ、って感じだったよな!」
「私そこまで言ってないよ!」
皆きっと、人が変わったようになっていた友人がもとに戻ってさぞ安心しているのだろう。

(………ぐぐ…私が、私が恵梨香なのに…!)

教室の後ろ。ロッカーの奥から私はコッソリとクラスの様子を伺っていた。…縁日で使うような金魚袋に入って、である。

早乙女さんが溢していたのだ。一度身体を入れ替えた者同士が強く望めば再び身体を入れ替えることができるのである…と。それを利用して、私達は再び身体を入れ替えたのだ。赤点回避という目的のためだけに。
(ま、まあこれで赤点回避はできたし…、私また…人気者になれたよね…?)

一度知ってしまった甘美は、そう簡単に手放すことができない。たとえそれが自分の評価ではないと頭ではわかっていても。失望した皆がどんどん周りから去っていくなんて耐えられない。

(そ、そうだ。勉強はこれからも金魚にやらせればいいじゃん…!そしたら優等生でいられるし…皆も私を愛してくれる。大学だって楽して行けるじゃん…!)

座学の一時だけだ。そんな甘えた考えに流され、私は金魚に学問という時間を与えてしまった。

※※※

「委員長お願い!レフトのコが怪我しちゃって…。次の大会出てくれない!」

放課後。授業が終わって漸く人間の身体に戻るや否や、金髪の少女に駆け寄られる。

「ふえ…!えっと…大会って…?」

「バレーボールの大会だよ!前応援しに来てくれたでしょう?一試合だけでいいから!」
金魚の奴、私が知らない内にそんな思い出まで作っていたのか…。いや、そんな話じゃない。バレー?で、できるわけがない。私は球技が大の苦手なのだ。…球技というか運動全般か…。

「ご、ごめんなさい…。私、バレーなんて…」

「そんな謙遜してぇ~!…まあ確かに、最近体育の授業は手抜いてるみたいだけど…。私、委員長が滅茶苦茶運動神経よくて、バレーの授業無双してたの知ってるんだよ!1年の時勧誘されまくってたでしょう?」
また私の知らない話だ。私の身体は私の知らないことが多すぎる。

「お願いっ!一生のお願い!ね?ね?ね!」

「う…」
どうしようか。ここで断ったら嫌われてしまうかもしれない…、クラスでの私の評価が落ちてしまうかも…。それに、勉強も運動もできる美少女…。悪くないかもしれない。どうせ1試合だけだ。

(金魚…。ちょっと手伝ってあげて)

自分のありもしない虚像を守るため、私はまた金魚に身体を貸すことにした。

※※※

「やったー!!これで県大会進出だよぉっ!!」

「委員長本当にありがとう!!委員長いなかったら絶対無理だったよ!」
試合が終わった頃合いをみて金魚と再び身体を入れ替えると、私は何人ものバレーボール部員に囲まれていた。どうやら金魚の活躍もあって試合には勝つことができたらしい。

「あ…あはは、よ、良かったねぇ…。じゃ、私はこれで…」

まさかこの試合がそんな大事な一戦だったとは。本当は家の水槽でくつろいでいただけなのに彼女らと同じユニフォームを着て、チームメイト、観客から称賛される罪悪感、場違い感に耐えられず、私はそそくさと帰り支度を始める。…が。

「委員長お願い!次の試合も出てっ!…っていうか入部して!委員長がいればきっとベスト8…いや、優勝も夢じゃないよ!」

「そうそう!まだ小宮ちゃんの怪我も治らないし…、委員長なしじゃとてもじゃないけど勝てないよ!」
…まずい展開だ。無論入部するとなれば私ではない。私の身体を使った“あいつ”が入部することになるのである。座学の授業の次は放課後の時間まで明け渡せと言うのか。なんとしてもこの流れは阻止しなくては。

「え、…えっとごめんね?私勉強とかもあって…」

「皆も委員長に入部してほしいよね!ね?」
私の言葉をかき消すような歓声が巻き起こる。チームメイトだけではなく、相手チーム、場外の観客さえも手を叩き、体育館全体が喝采で満たされた。この状況で、断る勇気など私にあるはずもない。

※※※

周囲からの期待に応えるため…いや、自分のちっぽけなプライドを守るため、私が金魚に身体を貸す頻度は加速度的に増していった。体育の授業、委員会の会議、休み時間…。最早私ではとても堀米恵梨香を演じられなくなっていたのだ。

「じゃ、パパとママとの食事会も私が参加するってことでいいのね?」

(…う、うん)
金魚は今や学校だけでなく、家庭内での私の立ち位置さえ歪ませている。私の両親は私が幼い頃から不仲で、中学3年生の時は離婚寸前であったのだ。家ではいつも怒声が響き渡り、その矛先が私に向かうことさえ多々あった。…しかし今やどうか。金魚は二人の仲を綿密に取り持ち、食卓ではいつも笑い声が溢れている。まるで本物の親子のように、金魚がその中に収まっているのだ。私が彼女に“擬態”してその中に入っても、すぐにボロが出てしまうだろう。

「そ、分かった~。じゃあ次はいつ貴女に身体貸せばいいのかな~」

(か、貸すって…!)
金魚はネイルを塗りながら、水槽の中の私を見ることもなく嘯く。…しかし間違ってもいない。身体を貸していたはずが、いつの間にか私が彼女のスキマ時間に身体を貸してもらっているような事態なのだから。私が一日の内に人間でいられる時間と、金魚でいなくてはいけない時間はとっくの昔に逆転しているのだ。

「あ、わたしそろそろ生理なんだよね。じゃあちょっと代わってもらおうかな~。…いや、でも学校行かせて恥かきたくないしなぁ」

ここ数ヶ月で金魚の態度もずいぶんと変化した。初めのころは胡散臭いくらい恭しい態度だったのに、今では明らかに私を対等に…人として見ていない。最初は勉強や鬱陶しい人間関係を彼女にやらせているつもりだったが、今では排泄や睡眠など、めんどくさい生理現象を私が逆にやらされている。…だけど全部、私が金魚に頼んだことであるから強く出ることもできない。

「金魚って楽でいいよねぇ…。人間って大変なんだよ。ねえ知ってる?“金魚”ちゃん?」

そう言って彼女は爪に息を吹きかけた。

※※※

「お久しぶりですね。元気にしていましたか?」

「ええ!お久しぶりです、早乙女さん!」
人気の少ない喫茶店のテラスで、私達は経過報告のために席を設けた。2年ぶりに顔を合わせた彼女…堀米恵梨香は溌剌として、それでいて清廉な少女に成長したようである。中学生の時会ったオドオドして、俯きがちな彼女とはまるで別人だ。被検体182…リュウキン金魚から身体を取り戻してから上手く生活に馴染めるか気になっていたが杞憂であったようである。
「学校生活はどうですか。楽しんでいますか?」
「ええ!本当に毎日が輝いていて、退屈することなんか一秒もありません!」

「そう。それはよかったですね。バレーボールを始めたって前にメールくれたけど、まだ続けているの?」
「はい!私達、県大会優勝しちゃったんです!なんかその流れで今は部長も兼務していて…」
他愛のない話を十数分続ける。 …やっぱり少しおかしいな。彼女の深層心理は何十回に渡って分析している。こう短期間で人が変わるものなのだろうか。それに、どうも私は彼女を堀米恵梨香とは別人として知っている気がしてならない。カマをかけてみるか。
「もう高校生活も長いし…、彼氏なんかもできたんじゃない?」

「いやだなぁ早乙女さん。まぁ…、できましたよ!彼ったら優しくて、…あいつらとは大違い…」

間違いない。堀米恵梨香は男性恐怖症なのだ。これは性格が変わったのではなく、中身が…。
「ふふ…。変に勘ぐらないでくださいよ。私が堀米恵梨香です。」

シュッと彼女の顔から笑顔が消える。こちらの意図をすでに察知しているようだ。心理学や諜報学など仕込むべきではなかったな。

「恵梨香さん…いや、貴女が飼うことになった金魚は元気ですか?」

「ああ、チェリーちゃんのことですか?ふふ、今日も連れてきてますよ。見ますか?」

そう言うと彼女はハンドバックから小さなビニール袋を取り出す。その中には水と、数粒の餌…そしておしりにフンをつけたままの金魚が漂っていた。
「いつもこうやって持ち歩いてるんです!なにせ彼女人間だったこともあるし、少しは外に出歩きたいかなぁって思って!」

金魚…チェリーちゃんは私の顔を見ても反応をほとんど示さない。最早知性はほとんど宿っていないようだ。おそらく十数匹の水槽に入れたら見分けることも困難だろう。

「…身体に負荷がかかるから、あまり連れ歩いてはいけませんよ…」

間違いなくこの金魚が本物の堀米恵梨香だろう。しかし…、何の証拠もない。2年前、この二人…一人と一匹の身体を元に戻した時点で入れ替わりは終了したことになっているのだ。それに、今となっては堀米恵梨香の皮を被ったこの女も彼女の人生を歩んでいるのである。人生の何割かを担ったと考えると、ある意味彼女も恵梨香であり、これを無理やり元に戻すのは倫理的な問題もでてくる…。私の責任問題も…。

「ふふ、あんまり難しいこと考えるのやめましょうよ!もし早乙女さんが考えている通り、この金魚が元私だったとして…、私の身体を与えても廃人になるだけです。このコの頭の中空っぽですよ?…もうとても人間はやれないわ。」

私が最初金魚に施した学習メソッドを使うこともできなくはない…。しかし、それは新たな人格を植え付けるだけで、恵梨香の人格を上書きすることに他ならない。恵梨香とはまた別の人間が生まれるだけだ。このコはその辺りも全て織り込み済みなのだろう。

「…。そうね。じゃ、今日はこの辺にしておきましょうか」

やむを得ない。今日のことは知らなかったことにしよう。私は席を立ち、会計を済ませていると、堀米恵梨香がふと後ろから呟き、そして去っていった。

「よい人生をいただきありがとうございます、早乙女さん♡」

END

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