あなたに触れたくて

窓の外。雪の空。多くの人が歩いている。二人並び。一人歩き。それぞれの姿を見つめている。私は何も知らない。ただ、人の心が少し感じ取ることができるだけ。心地良いもの、そうでないもの。もし私が感じ取られる側だとしたら、やっぱり素敵なものがいい。ひんやりとした手を気持ちだけ伸ばしてみる。だけど私には叶わない夢。動かない体で、動かない瞳で、何を感じさせられるだろう。
 すると、頭の上に触れられる。その手は優しく、暖かい。私のよく知るその気持ちは、落ち込んだ心を慰めてくれる。
「大丈夫よ」
 この人はいつもそう言っている。ただの気休めじゃない、まるで私のこれからを知っているかのように。
「あなたも、素敵な子なのだから」
 もうすぐ、その日が来る。彼女はそう囁いた。それは別れ。この日々の終わり。そうしたら、もうこの手は感じられないのかな。
「その時は、あなたも触れてあげて」
 触れる。それは私にはできないこと。だけど、もしかしたら。
「そのための魔法をあなたにかけておくから、いつか、思い出してね」
 だんだん眠たくなってくる。考え事をすると疲れちゃう。だけどそれも心地よくて、きっと必要なことなんだと思う。もう一度外を見る。手を繋ぐ二人。きっとあの二人は。私が抱いた何かが、眠りに落ちる心と一緒に深く深く沈み込む。

 そうして、目を覚ます。とは言っても、瞳は最初から開かれたまま。動いたのは私じゃなくて世界。少しずつ光が差し込んで、目に映る景色が変わり始めただけ。
(ああ、もう朝か)
 だけど部屋は静か。私だけじゃなくて、彼も動かない。今日は休みで、目覚ましもかかっていない。時間はゆっくり、ゆっくりと。私にとってはもっと明るくなるのが待ち遠しいけれど、彼にとってはもう少し眠っていたい、そんな時間。
 気持ちだけ、腕を上げて、脚を伸ばして。実際には動かないけれど、そんな心持ちが大事。物であろうと努めたりすると、何だか今考えている自分自身まで曖昧に思えてしまうから。だから「そうしよう」と意識する。幸いなことに私は一体しかいないけれど、もしも全く同じ姿形の人形が他にいてもその境界がはっきりするように。彼が私のことを分かってくれるように。他の誰かがいても、渡したくないから。誰よりも私のことを見てほしいから。
 そうしている間に、彼が起き上がっていた。
「あー……」
 まだぼんやりとしているみたい。思えば、昨日は随分と帰りが遅かった。仕事だろうか。それとも人付き合いだろうか。どちらにしても、楽しいことではなさそう。それならいっそのこと私の近くにいてほしいけれど……ただ、そうもいかないことくらいは分かっていた。彼と暮らすようになって、初めて色んなことを知った。人は何かを食べないと生きていけないし、眠らないと頭も体も働かないし、思っていた以上に忙しそう。最初は全然構ってくれないのかと思った。だけど少しずつ彼のことを感じ取れるようになってきた。出かけたくて出かけているわけでもない。ただ、そうしないといけないだけ。
 着替えることもなく、私のすぐ近くまで来る。椅子に座って、朝食のパンを食べて、それから……特に何かするわけでもなく、肘をついてぼーっとしている。何か考えるのも面倒臭い、そうとしか言っていない顔。起きたけど起きてない。心がまだ夢の中。なんだかもやもやしていると、視線が合った。
(おはようございます!)
 元気よくあいさつ。もちろん、そういうつもりというだけ。でもこういう時は笑顔が大事だとあの人がいつか言っていた。表情が変わらないのに笑顔がどうとかあるのかな、なんて思ってたら見透かされたように、心持ちが大事なんだって。あの人は私の、というより人形の考えていることが分かっていたけれど、それが普通じゃないと分かったのはここに来てから。普通は、モノの気持ちなんて分からないみたい。彼がこの前読んでいた物語にも書いてあった。物語の中で特別な力だなんて言われるくらいには、存在し得ないって。
「あ、埃……」
 彼の手が私の頭に触れる。何か付いてたみたい。ちょっと恥ずかしいけど、取ってくれるのは嬉しい。でももっとじっくり触ってほしい、なんて我儘も芽生えてくる。もどかしい。
「服とかそろそろ買い足すかなあ」
 なんて考えていたら、そんな言葉がでてきた。パソコンが立ち上がり、私の側にあるモニターに見慣れた画面が映る。部屋は散らかりがちだけどパソコンの中は片付いている。彼にはどんな服が似合うだろう、なんて考えながら見ていたら、彼の話ではなくて。
「人形 衣装 かわいい……と」
(あ、私の服のこと……?)
 彼はしばらく私に着せる服を探し続けて、悩んだ末に綺麗な薄いピンクのドレスをカートに入れた。
「届くの半年先って……まあ仕方ないな」
 そう言いつつも、先程までの気怠げそうな表情ではなく、少し明るい顔で。
「まあ、これでもっと華やかになりそうだし……楽しみだな?」
 私に同意を求めるような言葉。実際、私も楽しみになってきていた。

 だけど、その日が来るのを楽しみに待つ……なんてことはできなかった。翌日も、その次の日も、彼は疲れて返ってくる。私の方を見てはくれるけれど、心を落としてしまったかのよう。朝に苦痛を感じて、夜が終わることを惜しむ。その繰り返しになっていた。私が迎え入れられて、最初から彼が出かける日はそうだった。少なくとも仕事というのが楽しいものじゃないということは分かっていた。とはいえ、最近は以前より帰りが遅く、毎日苦しそうだった。ある日は誰かに電話をしたと思ったら恐ろしい怒号が聞こえて、彼は結局出かけていった。明らかに体調が悪いのに。その次の休みの日は私のことを見るどころか、まともに立ち上がれてすらいないくらいで。もう、ドレスが届くのを待つなんて気分にはなれなかった。彼が苦しむくらいなら明日すら来なくていいと思うくらいに。そして考える。私も、何かできたらいいのにと。でも、私は人形だから何もできない。動くことも話すことも。苦しみを癒すなんてこと、できない……そういえば、そんなこと、前も考えていたような。
『いつか、思い出してね』
 私が彼と出会うほんの少し前のこと。不思議の言葉。いつか来る日のこと。
(私が、触れる)
 私には叶わない夢。動かない体で、動かない瞳で、何を感じさせられるだろう。こんなに彼のことを考えていても届かない想い。これが逆だったなら、私にはいっぱい伝えたいことがある。
『あなたのことが、大好きです』
 そう。もし伝えられるなら何にしよう。ただそこにいるだけじゃ足りなくて。短い言葉でこれまで降り積もった全ての気持ちを示そうか。たくさんの言葉で一つだけの大切な気持ちを表現しようか。どっちでもいい。その時に出てくるありのままを差し出して。これが私ですって胸を張れるはずだ。あなたが手を取ってくれた私だって。
 でも、そんな日は来るのかな。ううん、その日はすぐに来る。理由は分からないけれど、確信があった。あの人が特別な力を持っていたのなら、あの人が魔法を掛けてくれていたのなら。後は私だけ。そうしたいんだと、立ち上がるだけなんだ。
(大丈夫)
 言葉を繰り返す。触れたくて。応えたくて。私の方から、あなたの側に行きたくて。だから私は、手を伸ばした。動かない手で、ただ願いながら。

 そして意識が落ちていく。ぐらり、ゆらりと傾いて。縦と横があべこべになる。落ちていく。体を置き去りにして、落ちていく。とても暖かいものとすれ違って。私は落ちていく。彼の元へ。

 私の目に、見覚えの無い景色が飛び込んでくる。なにかが……いや、なにかなんてものじゃない。全部違う。今感じている全てが、いつもと違う。私の上に何かがあって、私は座っていなくて、私は。
(何が、起きてるの)
 少なくとも、いつもの朝じゃない。そうだ、彼はどこだろう。私は違うところにいて、彼は……そうして、周囲を見渡して気付く。
「今、私……」
 それは声。それも、聞き覚えのあるような声。ゆっくりと、動かしてみる。足が動く。彼に関節を動かしてもらった時のことを思い出しながら、慎重に立ち上がる。今いる場所と、いつもいるはずの場所を繋ぎ合わせる。そこは確かにいつもの部屋だけど、全然違って見える。そうだ、それなら今の私を確認する方法があるはずだ。いつもいる机の上に、鏡がある。覗き込むと……彼が立っていた。
「どうして……?」
 問いかけても答えは返ってこない。私が彼だとしたら当然だった。だって他には誰も……そこまで考えて、あるはずのない物があることに気付く。
「私がいる……」
 そこに確かに私の体があった。いつもの私がいた。動くことのない人形が、そこに佇んでいる。ますます混乱しそうになって、ふと思い至る。私が彼になっているのだとしたら、その反対が。
「もしかして、そこにいるの?」
 いつもの私のようにはっきりとは感じ取れない。だけど確かに、私の中に彼を感じた。彼の中に私。私の中に彼。私が人間になっていて、彼が人形になっていて。もしかして、これがあの人の言っていた魔法? 眠る前に、私があんなことを思ったから? もし、そうだとしたら。やらなきゃいけないことがある。
「……今なら」
 いつも彼がそうしているように、椅子に腰をかける。彼の体に染み付いているのか、動いたことなんてない私でも同じようなことができる。少しぎこちないけれど。心がざわつく。いつもみたいにはっきりと分かるわけじゃない。ただ、きっと戸惑っているはず。だから。
「大丈夫だよ」
 昔、あの人がそうしていたように。彼の手で、彼の頭に手を置いて。
「今だけ、私に貸して」
 あなたの手を。あなたの声を。彼の頭に置いていた手を離す。じっと向き合う。少しずつ、波立っていた心が落ち着いていくのを感じる。私のものも、彼のものも。少しだけそんな気はしていたけれど、予想通りだった。私が彼の体で動いているのと同じ。彼も、私の体で感じている。私の心を感じてくれている。そんな気がする。
 そうだとしたら、やっぱり意味が無いかもしれない。だって、今なら彼は私の全てを感じてくれるかもしれないのだから。それなら触れる必要も、声に出して伝える必要も。でも、だからといって黙っていたくない。だって私は彼の全てを知らないから。私は彼に全てを知ってほしいから。こんな機会はもう無いかもしれないし、後悔したくない。
「私、あなたのことが大好きです」
 まだ足りない。あなたと出会う前。あなたと出会った日。あなたと過ごした時間。あなたといるこれからの未来。考えれば考えるほど言いたいことが増えていく。
「だから、こうやって言いたかった」
 言葉を絞り出して、大切な想いを。
「一度でいいから、私から触れたかった」
 優しく抱きしめるように、両手で包みこむように。
「だから……」
 急に言葉が詰まる。まだまだたくさんのことがある。私がどんなことを考えていたか。あなたを見て何を思っていたのか。だけど、いっぱいいっぱいで。これが今の私の限界。私の全て。こんな機会があれば、絶対に伝えたかったこと。そうなれば、残りの言葉は。
「……私の側にいてください」
 きゅっと手を握って。一通り話し終えて。すると、なんだか恥ずかしくなってきた。この前の彼と同じ? ううん、何だか違う気がする。そう、例えるなら恋の話。告白の話。好きな人への愛を伝えると、かあっと熱くなったりするんだって。そんな場面がモニターに映ってた気がする。と、いうことは。
「これって……」
 気が遠くなってくる。そっか、伝えることってこんなに難しいんだ。不思議な状況で、衝動的に口に出してしまったけれど……ああ、きっとこれは一生に残ると思う。でも、これでいいかな。そう、やっぱり後悔したくなかったから。

「……大好き」
 もう一度だけ言っておく。彼に借りた顔で笑う。彼のいる私の体を見つめる。ふと、心のざわめきがまた波打ってることに気付いた。しかも、最初より遥かに強く。もしかして、何か不味いことを言っちゃった? それとも。今の私にそれ以上を知る術は無い。やっぱり、伝えないと分からない。そうなると、元に戻らないといけない。改めて考えれば、せっかく動けるならやってみたいこともある。でもそれ以上に、不安が生まれ始めていた。こんなことが起きて、彼は今どう思っているのか。
 握った手が無意識に強まる。するとその手を握り返される。

「え?」
 そんなこと、ありえない。だって今、彼は私なのだから。だけど視線を合わせて、何となく納得する。不思議は今この瞬間に起こっているのだから、もう少しだけ不思議なことが増えてもおかしくない。私は彼の体でも少しだけ気持ちを感じ取れる。だったら、彼は私の体でも少しくらいは動かせるのかもしれない。よくよく考えてみれば自然かもしれない。私は彼の人形だから。
「ありがとう、私の大切な持ち主さん」
 まだ言ってなかった感謝の言葉を言って。その後、聞こえないようにもう一度だけ、一番言いたい言葉を呟いて。すると、何だか眠たくなってきた。そういえば、昨日はいつ眠ったっけ。きっとこの体はまだ眠り足りないんだ。できればもう少し、なんて思ってしまうと離れたくなくなっちゃう。だけどそうなったら今度は彼が私に触れてくれない。だから、名残惜しいけれど。魔法の時間は終わり。また、いつものように。
「……戻るまで、触れててもいいよね」
 きっといいって言ってくれるよね、なんて甘えたことを考えながら目を閉じる。それを肯定するように、指先から心が暖まっていくのを感じながら……もう一度、落ちていく。微睡の中で、寄り添って。触れ合ったままに落ちていく。
「どうか、一緒に幸せになれますように」
 願いを込めながら、どこまでも。

(わあ……)
 あれから半年近く経った頃。とうとう彼の買ってくれたドレスが届いた。早速着せてもらうと、いつもとは違う私が鏡の前に立っている。腕と脚を動かされて、色んなポーズを取らせてもらう。彼のプレゼント、大切にしようと思った。とは言っても、私はやっぱり自分では動けないけれど。
「よく似合ってるぞ」
(ありがとう)
 言葉は返せないけど、せめて心の中で言語化しておく。あの日から、彼ははっきりと私に声を掛けるようになった。やっぱり、私の中に彼がいたんだって教えてくれた。随分恥ずかしそうにしてたけれど。
『まさかあんなこと言われるなんて思ってなくて……でも嬉しかったよ』
 心の底から安心したし、嬉しさが溢れてきた。それからの毎日は、前よりもっと幸せで。彼は私に笑いかけてくれる。私を愛してくれる。誰よりも側にいてくれる。しばらくは少し前までと同じように帰りが遅くなっていたけれど、ある日から突然しばらくの間はあまり出かけなくなって……今では、明らかに外に出る時間は短くなった。いい仕事が見つかったんだとか。以前よりやりやすいらしくて、遅くまで残らなくていいんだって。そして、そうしたのも全部。
『一緒にいたい相手がいるから』
 って。それだけ想ってくれるのが嬉しくて。なのに、その後お礼まで言われちゃって。そこで実感できた。ああ、本当に私も彼に触れられたんだって。
「よし、他の服も探すか」
 早速次が始まる。さすがに早いような気もしたけれど、以前よりも更に熱量が増したみたいだった。生き生きしていて、楽しそうで、彼もまた同じ気持ちを持っているんだと感じ取れる。
 そういえば……あの奇跡のような入れ替わりは、あれ以来起きていない。やっぱり一度きりの機会だったのかもしれない、そう思うとちょっとした未練が湧いてくる。でもきっと、私と彼の間にはあの一回だけで良かったんだ。もうこれ以上の不安は無い。間違いなく、あの日に私たちは変わったんだ。人と人形の間の壁を取り払って、確かに通じ合って、心が繋がったんだ。だから、これからもっと幸せになれる。そんな事実が、私たちの目の前に広がっている。だから明日もまた、朝起きて、彼の姿を見て。そうして安心して、願うのです。この日々が長く続きますように。大切な人との幸せな時間が、悔いの無い結末まで続きますように、と。

あとがき
ascionと申します。ギリギリで参加申請してギリギリで提出しています。普段はpixivで人形化とかを書いていたりで、入れ替わりを書いた経験はほとんど無いのですが……(色々な意味で)自分の殻を破るのを目指して書いてみました。なにぶん前回小説を書いてから一年以上経っている身なのでフルパワーが発揮できているかというと少し怪しいですが、色々と振り絞って書き上げました。この作品が読んでくださった方に触れられていれば幸いです。

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