誰も疑問に思わない入れ替わり

 朝礼が始まった。今日もいつも通りだな、と俺こと浜辺賢吾は思う。毎日同じことの繰り返しで飽きないのかと思うが、仕事だから仕方がない。眠気を押し殺し、俺は課長の話を聞いていた。
 課長が周囲を見渡しながら話すが俺と目が合うことはない。なぜなら課長の目は目前にいる女性社員たちに向けられていたからだ。課長は女好きだからな。この課の女性社員はみんな可愛い子や綺麗どころばかりだ。ひょっとしたら課長が人事に介入しているのかもしれない。そしてこの座席も課長が「仕事の効率を考えて」という大義名分のもと独断で決めたものだった。でっぷりと太った不潔な課長のそばに置かれる女性社員たちは気の毒だ。
 俺から見ると後ろ姿しか見えないが、課長の目線は明らかに一人に注がれていることがわかる。その女性は背筋を伸ばして話を聞いている。綺麗な黒髪をひとつ結びにしているのが特徴的だった。課長の話が終わると、彼女は席に着いた。俺はこっそり彼女の顔を見た。やっぱり美人だよな…と改めて思う。
 彼女の名前は鈴木結衣ちゃん。年齢は25歳。最近後輩社員ができたことで仕事に張り切っているらしい。しかし課長とは折り合いが良くないようで、たまに喧嘩している声が聞こえる。先日なんて、課長のセクハラ(彼が言うには教育)に対して彼女がガツンと言ってやり返していた。あの時はさすがに驚いたよ。あんな強い口調で言える人なんてそうそういないからね。そんな彼女だけど、その容姿から男子社員の間では人気が高い。当然俺も美人だと思うが、俺の好意は別の人にあった。

「尚人さーん!今いいですか?ここなんですけどー…」
「あぁ、ここは…」

 朝礼が終わり、隣では同期の倉林紗也花が先輩である倉林尚人に話かけていた。名字から分かる通り二人は結婚している。つい先月結婚式を挙げたばかりの新婚ホヤホヤだ。沙弥花の可愛らしい容姿と天然な性格は庇護欲を誘う。俺も入社してからずっと好意を抱いていただけに結婚したのは残念だった。そんな俺の思いを知らず、仲が良さそうに話を続ける二人を見て、嫉妬心を覚えた。倉林先輩は基本的に誰からも好かれるいい人だ。俺も仲が良いため嫌いになることはできない。唯一の欠点といえばヘビースモーカーであることだ。定期的にタバコ休憩を取っているため、結衣ちゃんにはいつも「真面目に仕事してください」とか「タバコ臭いです」とか言われている。
 反対側では新人の若山君がベテラン社員の手嶋嘉恵さんに仕事のやり方を教わっていた。手嶋さんは既婚者でお子さんも中学生に上がるくらいの年齢と聞いているがとても美しく、スタイルの良い人だ。仕事の要領も良いため、あの課長でも手嶋さんには頭が上がらない。この課は手嶋さんに支えられているといっても過言ではない。彼女は若山君の質問に対し、丁寧に答えていく。時折彼の方をチラリと見る余裕のある大人っぷりには純粋に憧れを抱いてしまう。いつも余裕のない若山くんとは正反対だ。
さて、人間観察はここらへんにして仕事を始めるか。

***

「おい、聞いているか!」
「ひゃいっ!」

 いつのまにか眠っていたようだ。突然起こされて変な返事をしてしまった。俺を起こした声の主は倉林紗也花だった。

「どうしたんだ?」
「お前、まだ寝ぼけているのか?最近たるんでいるんじゃないか?」

 紗也花が腕組みしながらこちらを見る。見たことがないような強気な態度だ。

「すまん。ちょっと眠っていたみたいだ。昨日夜更かししてさ」
「お前…その口の聞き方はなんだ!」

 紗也花が吠える。

「おい、敬語!敬語忘れてるぞ!」

 隣りにいる結衣ちゃんが小声で指摘する。その表情は少し呆れ気味だ。

「えっ…?」

 結衣ちゃんも俺に対して敬語忘れてない?と口に出そうとしたが言葉を飲み込んだ。紗也花の態度の変化についていけず、俺は動揺していたのだ。

「えーっと…なんでしょうか?」
「もういい、後でな」
「はぁ」

 俺は間抜けな返事をするしかなかった。すると紗也花は踵を返し課長のデスクに行くと不機嫌そうにドカッと座った。

「先輩すごいですね。私でもあんな態度しませんよ」

 倉林先輩がやってきて耳打ちしてきた。紗也花や結衣ちゃんの態度も倉林さんのセリフも意味が分からず俺は混乱するしかなかった。隣では半泣きになりながら仕事をする手嶋嘉恵さんを若山君がフォローしていた。

***

 休憩時間が終わり、デスクに戻ると倉林先輩の席に座る結衣ちゃんと課長が仲良さそうに会話をしていた。犬猿の仲の二人とは思えない光景だった。まるで今朝の倉林先輩と沙也花を見ているようだ。課長の席には相変わらず紗也花が座っていた。チラリと見るとそれに気づいたのか目が合った。ちょっと来い、と首の動きで合図されたので仕方なく俺は彼女の席に行った。

「あの…何ですか?」

 恐る恐る聞くと彼女は舌なめずりしながら俺の顔を覗き込んできた。

「なぁ…お前調子に乗っているだろう」

 綺麗にかかれた眉毛を歪めながら沙弥花は言う。俺には訳がわからなかった。

「どういうことでしょうか?」
「上司である俺にタメ口を聞いたり居眠りをしたり…これは教育をしないといけないな」

そう言うと紗弥花は俺のお尻に手を添えて撫で回し始めた。

「うわぁ!」

 俺は驚き、思わず声が出てしまった。周囲を見るとみんなが俺の方を向いていた。

「チッうるさいな、静かにしろよ」

 紗也花が睨みつける。

「すみません…」

 俺は謝ることしかできなかった。その後も紗也花によるセクハラが続いたが、若月くんが紗弥花に書類を持ってきたところでそれは中断された。若月くんがすれ違いざまにウィンクをするのが見えた。

***

 自席に戻ると結衣ちゃんに話かけられた。

「おいおい、お前も男なんだから課長のところに行くときは気をつけろよ。あのひと若い男が大好物なんだから。…おっ、結衣ちゃんがお手本を見せてくれるぞ」

 結衣ちゃんの視線の先には紗弥花のもとに行く倉林先輩が見えた。沙弥花が倉林先輩のお尻に手を伸ばすとそれをパシりと払い除ける。おおよそ新婚とは思えない険悪さだ。

「二人は喧嘩を…?」
「いやいや、あんなの前からだろ。頭大丈夫か?」

 結衣ちゃんは言うときは言うタイプとはいえ、いきなりの言葉に面食らう。

「さっきから話が見えないんですけど…もしかして沙弥花のことを課長って言ってます?」
「課長は課長だが…あぁ、そういえば今は沙弥花の姿をしているか」
「それってどういうことですか?」
「だから課長と沙弥花の見た目が入れ替わったってことだよ。んで、俺は結衣ちゃんと入れ替わった。それだけのことだ。」
「はい?」

俺は素っ頓狂な声を出す。

「お前、本当に寝ぼけているのか?さっきも寝ていたみたいだし。今日は早退したらどうだ?なぁ沙弥花」
「そうよ。今日の浜辺くんなんだかおかしいよ。」
「きっと課長にセクハラされたからじゃないか?初めてのことだし」

 結衣ちゃんと課長は俺の身を案じて会話している。言っていることを整理する限り彼らは自分たちのことを倉林先輩と沙弥花と主張しているようだ。だが色々とおかしい。

「見た目が入れ替わっているにしても沙弥花…課長はなんで俺にセクハラを…?」
「なんでって…そりゃ課長はセクハラ大好きだし、今は女だからな」

答えになっているような、なっていないような回答に釈然としない。

「沙弥花は良いのか?課長に身体を使われているんだぞ」
「もともとは私の身体だけどー、今あの身体は課長のものだから別にいいかな。性別が変わっちゃったけど尚人さんも女の子になったから結婚生活には支障がないし」

 そう言って課長は愛おしそうに結衣ちゃんの腕に手を絡ませる。結衣ちゃんも「おい、職場だぞ」と口では言うがまんざらでもない表情を浮かべる。本来の二人であれば嫉妬に狂いそうになるのだが、今はその光景に笑いがこみ上げてくる。

「そこ!無駄話してるんじゃない!」

 手嶋嘉恵さんに説教をしていた沙弥花が課長席から叫ぶ。

「困ったものね。私がなだめに行くから皆は仕事をしていて」

 若月くんが悩ましげにため息をつく。

「あの…俺が行きます」

 とっさに声が出た。全員が俺を見る。

「大丈夫?浜辺くん、さっき散々されてたじゃない」

 若月くんが心配そうに言う。他の面々も心配そうに俺を見た。

「大丈夫です!俺、ガッツリ言ってやりますから!」

 そういって沙弥花のもとに行く。

「ここだと他の人の迷惑になるので続きは資料室で」

 俺は紗弥花の白く手触りの良い手に自分の手を重ねて意味深に笑いかける。沙弥花は驚いた顔をこちらに向けたがすぐにニヤリと笑い、俺の手を引っ張って部屋を出た。
 心配そうに見守る同僚とは裏腹に、俺はこれから起こることに胸を高鳴らせていた。

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